森のひとりごと

仲良し友達親子

 今年も新規採用職員の採用試験のための面接をこなした。初めて市長として採用試験の面接に臨んだ日から起算すると17年も経ているのだから無理もないのだけれど、年々、受験者の若者と僕との年齢差に驚かされる。彼らにしてみると親よりも年長の年寄りにあれこれと質問されるのだから戸惑っているのだろうなあ。一方の僕にしてみると、面接は若者たちのまぶしい若さに圧倒されてしまう時間なのである。毎回感じさせられることが、もう僕が失くしてしまった若さが惜しいということだ。日頃から、老人クラブの中の青年団だ!などとうそぶいていても若者の瑞々しさの前では老いを感じさせられる。あたりまえのことだけれど…。

 さて、今年の受験者の中に驚くべき苦労人がいた。県外から富山大学に入学し、食費も家賃も被服費も遊興費も全てアルバイトで賄ってきたというのである。シングルマザーの母には負担させられないから自分が働いて生活費を作るのは当然のことだと外連味なく話した。僕の学生時代の、親の援助を前提にした自堕落な日々と比べるとなんという違いなのかと思わされた。若者の頑張りに圧倒されてしまった。たまにこういう若者に出会えることが面接試験の楽しみでもある。

 もちろん他の受験者も面接試験への緊張で硬くなりながらも、輝く若さを発揮してくれる。誰もが誠実さやひたむきさを発してくれて気持ちが良い。みんな良い若者ばかりだ。

 でも、男女ともに多くの受験者が、市内の高校を出て地元の富山大学に入り卒業を前にして富山市役所を受けにくる、そんな、親に心配も負担もかけなかった“いい子”が大多数なのである。世の中は、一人暮らしの経験がなく、自分の生活費の心配をしたこともない、ひょっとしたら一人旅もしたことのない“いい子”が増えているのかも知れないなあと感じさせられる。悪いことじゃないけれど物足りなさを感じるのは僕だけだろうか。

 以前に、富山大学の入学式には学生の数より多い保護者が夫婦連れで参加していることに驚いたというエッセイを書いたが、今は高校の入学式や卒業式に親のみならず祖父母が来ることが普通にあるのだと聞いて更に驚いてしまった。親が働いているので小さい時から祖父母が面倒を見てきたからか。そういえば市役所の近くで、孫の塾での学習が終わるのを待つため、時間貸し駐車場があるにもかかわらず堂々と迷惑駐車を長時間している高齢者を見かけるのはしばしばだ…。

 見方を変えると、一人っ子を両親のみならず祖父母も一緒になって大切に育て、いつも仲良くほのぼのとした家庭の中で暖かく養育された“いい子”が増えているのではなかろうか。ある時に読んだ高校の先生たちの談話集に驚かされた。いわく、「最近の子どもたちは親に対する反抗期がない。親も反抗期がないことを自慢している。そもそも父親も母親も子どもを叱らない。子どもは叱られたことがないから教師が注意すると驚いた後に泣き出したりする。反抗期がないということは壁にぶつかったことがないということ。全部親が決めてくれている。そして自分で決められないのにすぐ人のせいにしてしまう、そんな傾向の子どもが増えているのが心配だ。」と。反抗期がないまま親子で仲良く過ごし反発しないまま友達のような親子関係が出来上がり、祖父母もそこに加わり、諍いも反発もない穏やかで平和な家庭が増えていく。タイトルに書いた「仲良し友達親子」の、あるいは「仲良し友達家族」の出来上がり…。良し良し。

 「仲良きことは美しき哉」と武者小路実篤は言ったけれど、荒野を歩む強さを育むことも必要では?仲良きことだけで良いのだろうか…?

エッセイ関連記事

週刊ブログ

エッセイ