森のひとりごと

新規製造物禁止令

 徳川家第8代将軍の徳川吉宗の名を知る人は多いと思う。幕府財政の再建を目的とした享保の改革を主導した人であり、中学生の頃に習った日本史では江戸時代における名将軍の一人として教えられた印象がある。米価や物価の安定政策としての倹約や増税、目安箱の設置、小石川養生所の開設などを行った人物であると記憶している。

 その徳川吉宗が行ったものであまり知られていない事例を2件紹介してみたいと思う。その一つは日本全国の人口調査を行ったことである。1720年を起点として6年ごとの人口調査を命じたのである。この調査は1721年から1864年までの間に25回行われていて、資料として使えそうなものは18回分だけだとされている。なお当時の調査対象には武家やその使用人は含まれていないため、(何故なら課税徴税のための調査だからであろう。)今の時代の人口統計調査とはかけ離れた調査となっている。そういう調査ではあるものの面白い現象を示しているようだ。18回分の調査を通して人口はほとんど変化せず、平均すると約2,615万人となっている。もとより大飢饉があった年次には調査どころではなかったと思われ資料が残されていない。いずれにしても江戸時代後半のわが国は人口を増加させることができずにいたのであった。それが明治維新を迎えるとあっという間に人口増に転じた訳で、面白い現象だと思う。

 そのことに大いに関係するのだけれども、吉宗の改革の中でもう一つの特徴的なものを紹介したいと思う。それが1720年に出した新規製造物禁止令というものなのである。吉宗は次のように考えたらしい。「今、世上に売り買うよろずの品物、何一つ備わらぬことなきに、なお多く造り出さば、人々身の程に超えて買い求るようになり、自ら家資窮乏し、国の衰えとなる」と。さらに、例えば高瀬川ができたことで琵琶湖から京への物資の輸送が便利になった半面、牛馬で物資輸送をしていた生業が衰退したことを憂えたのであった。その結果として新田開発は行われなくなり、鉱山においては新しい鉱脈の発見が滞ることとなった。こんな馬鹿げた命令が出れば、人々の創造性は破壊され、経済は完全に停滞してしまうことは当然の結果である。その結果の大きなものが先に紹介した人口の停滞なのである。

 5代将軍である綱吉の「生類憐みの令」は悪法として有名だが、吉宗の「新規製造物禁止令」はもっと悪法であると思う。

 わかりやすい例を示すと、佐渡金銀山の出銀高も別子銅山の出銅高も1720年から明治維新までの150年間はほぼ横ばいであったが明治維新後に急増しているのである。新田開発や農業用水の新設などの農業用土木工事についても同じことが言えると思う。人口や経済が停滞すれば国力が落ちることは僕のような経済の専門家じゃない者の目から見ても自明のことである。開国と政体の転換は必然だったと思わされる。

 言葉をかえれば、規制緩和とイノベーションがいかに重要なものであるかを物語っていると思う。前時代的なものには何の価値もないと言うつもりはない。不易流行こそが重要だと言いたいのである。本質的なものを忘れない中にも、新しく変化を重ねていくことであろう。そして今、イノベーションが求められる時代が来ているのだ。

(参照:板倉聖宣著「日本史再発見」)

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