森のひとりごと

充実の日々

2021.03.05

 市広報に掲載するエッセイは本稿が最後になる。長く市長職を続けさせてもらったことに対する感謝の思いを込めたエッセイにしなければと思うもののなかなか筆が進まないので、いっそ、最後だと意識せずにいつものように思いつくままに書くこととしたい。

 僕が市長に就任した時は49歳であった。その時の助役が63歳、収入役は67歳の方であり、部局長は全て干支が一回り以上違う年長者であった。それが今では富山市役所の中で自分が一番の年長者になっている。鮮度が落ちるのは当然のことだ。僕は若い頃から一日に百回以上は「有難う」を口にしてきた。そして、年長者に対しては「有難うございます」と言ってきた。それが最近は「有難う」としか言わないことに気付いてショックを受けた。たいがい、年下の人と接しているからではあるものの、謙虚さに欠けているのではと反省している。

 在任中、絶えず現場主義で対応してきた。嫌なことから逃げずに現場の声を聞いてきた。職員を責めることはしないように努めてきた。責任は自分がとるから伸び伸びと仕事をするようにと推奨してきた。手柄は部下に、責任は自分にということを意識してきた。例外があったかもしれないけれど、思いは今も変わらない。

 そして50歳を過ぎてから、毎年新しいことに挑戦してきた。外から見ると遊び惚けているように映ったかもしれないが、すべては市政に生かしたいとの思いからである。

 51歳から始めた登山は市町村合併後の山小屋巡りに役立った。水上ラインのきっかけにしようと2泊3日で山中湖に行き、小型船舶の免許を取得してきたこともある。全国から集まってくれたチンドンマンに喜んでもらいたいという思いからアルトサックスを始めた。外国からのお客様を交えたパーティーで職員と一緒にスタンダードジャズの演奏もした。太郎平小屋までソプラノサックスを担いで登り、「見上げてごらん夜の星を」を演奏したこともあった。あまりに重かったので、翌年はオカリナを持参してごまかした。OECDやロックフェラー財団や国連本部などからシンポジウムへの参加を要請されることが多くなってからは着物の着付けを学んだ。会議終了後に催される懇親の場で着物姿を披露するためである。国連本部で開催された日本政府主催のパーティーに一重の着物で参加した際には大きな拍手をもらったが、僕の後からキティちゃんが現れると会場内の全ての関心がそちらに移ってしまったという経験もした。

 国際会議でのスピーチのために韓国語やイタリア語も学んできた。国内外の多くの会議に参加することは、市役所に自分がいない時間が増えるということになる。それでも参加した会議において富山市の取り組みを披露することの意義が大きいと思い、わがままを通させてもらってきた。議会や職員の、何よりも市民の皆さんの温かい理解があればこそのことだ。感謝に堪えない次第である。不在の時間を少なくしようとの思いから滅茶苦茶にハードなスケジュールの出張もしてきた。朝5時にバンコクに着き、同日の夜8時に帰国便に乗るということもあった。1泊3日でパリやミラノに赴いたこともある。褒められたものではないけれど…。

 市長在任中、絶えず都市経営という視点を忘れず努力してきました。はたして市に貢献できたのか、市政の進展があったのかは心もとない次第ではありますが、多くの市民の皆様のご理解とお支えのお陰で充実した日々を持つことができました。言い尽くせないほどの感謝の思いでいっぱいです。有難うございました。これからの4分の1半生は“農の心”を大切に生きていこうと思います。果樹手伝い(見習い)ではありますが…。

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