森のひとりごと

2021年9月12日

2021.09.12

 わが家では、今年の幸水の収穫が数日前にやっと終わった。と言っても、一つの実を除き、ほとんど全ての収穫は8月の末に終わっていたのだが…。大きな一つの実だけがなかなか色まずにしっかりと枝から下がっていた。あまりに大きいので、風が強かった日にはマスクをハンモックのようにして覆って補強までしたくらいだ。ここにきてやっと色んだので、そっと取った次第。おそらく今年収穫した幸水の中で一番の大物ではないかと思う。重さを計ってみると953グラムもあって驚いた。それが冒頭の写真である。僕のガラケーを参考に大きさを推し量ってほしい。今は冷蔵庫の中にあるがはたしてどんな味がするのやら。

 父が育ててくれた樹のお陰で、今年も大きな梨がたくさん獲れた。選果場では560グラムまでしか受け付けてもらえないので(選果機が重さに耐えられないらしい)栽培手法としては不適なのかもしれないが、僕は見た目がきれいで大きい梨が獲れると嬉しくなる。父も同じ思いで畑や梨の樹の樹勢を管理していたものと思う。その思いに応えられる梨栽培者になりたいものだと強く思っている。
 さて、その父が8月22日に逝った。97歳と11ヶ月という大往生であった。病気になったことさえなかった人だったが、昨年は数か月間入院をした。回復後は母親と二人で同じ老健施設に入所していたのだが、いよいよ老衰には勝てなかったということだ。梨の最盛期を見届けるかのようにして逝ったのだから、父らしい最後だと思わされる。
 復員してからの父の生活は家族のために働き続けるというスタートであった。僕が小学校の頃までの我が家や近所の農家は梨にとどまらず、桃、柿、ブドウ、リンゴ、お茶、そして米と色々なものを作るという零細な営農形態であった。当時は富山の市場に丸八と丸協という卸会社があり、生産者はそのどちらかの競りに作物を出荷していた。しかし、競りとは言え、市場価格の決定はもっぱら卸や仲卸の胸先で決められていたらしい。そういう時代に父は数人の仲間と図って共同で選果をし、まとまりとなって出荷をするということにチャレンジしたのだった。生産者が市場価格の決定に影響力を持つことを狙って始めたことだった。栽培作物を梨に絞り、今の言葉で言えば、ブランド化を図ったということだ。当然にして、市場関係者や地元の他の生産者、村の長老たちとぶつかることとなる。子供の頃にわが家で大人たちが口論をしていて眠れなかったことが何度もあったことを忘れない。父たちは頑張った。朝から収穫作業をし、夜は、今から思うとオモチャのような選果機で自分たちで選果をし、一つのボリュームとして出荷をする。その場所で雑魚寝のようにして仮眠を取り、また次の日の収穫作業に就く、両親のそんな姿をよく覚えている。そんな努力が徐々に奏功し、仲間が増え、組織が大きくなり、「呉羽梨」というブランドが認知されていったのだ。やがて老いた父はリーダーの立場から離れたものの、呉羽梨のことを思い続けて来た。そんな父が95歳の年に老木を一人で4本も抜いたことに驚かされたことがある。その姿に僕は大いに心を動かされた。農家の長男である僕の老後の生き方を思い知らされたのであった。父に教えられながらも少しづつ体験を重ねてきた。昨年父が入院してからは、近所の人や親せきに助けてもらいながら、収穫にとどまらず、剪定、枝の誘引、人口授粉、そして摘果と経験を積むことができた。4月に任期を終えてからは週に一度の消毒防除作業も一人でこなしてきた。その都度、父に報告をし、写真をみせるなどしてきたが、今年の成果を食べてもらうことは叶わなかった。コロナ禍のせいとは言え、いささか残念である。それでも、僕が無事に任期を終えたことを見届け、おぼつかないとは言え、梨の栽培作業に就いたことを応援してくれたのだから良かったと思う。父の最後を看取っていただいた医者は「一言で言うと、老衰です。」と言ってくれた。あっぱれな人生だったと思う。合掌。
 今週はお礼肥を撒きたいと思う。父に負けない見事な梨を作ることが僕のこれからの人生の目標である。頑張って行こうと思う。

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