平成最後のチンドン

森 雅志 2019.04.05


 今年のチンドンコンクールは4月5日(金)
から7日(日)までの3日間。一方、今年は暖冬だったので桜の開花が例年より早くなるだろうと予想されている。開催時には桜が散ってしまっているのではないのかと心配しながら3月半ばにこの稿を書いている。平成の御代で最後のチンドンなのだから満開の桜の下で夜桜流しが見られると良いのだがなあ…。
 そんな心配を口にしていると、なぜ富山市でチンドンコンクールが開かれているのかと訊ねる人に出会った。10年ほど前に詳しく背景を書いたことがあったが、時が移ろうと分からない人が増えてしまうことに気付かされた。そこで今回の稿は以前に書いた文章を下敷きにしながらもう一度チンドンについて述べることとしたい。
大空襲で焦土と化した富山市は再建の槌音を響かせながら昭和27年4月28日の平和条約発効の日を迎えた。この日をもって米軍による占領が終わり、わが国は完全なる主権と独立を回復したのである。そして富山市はここから大きく動き出すこととなる。当時の富川市長は復興のシンボルとして昭和29年の富山産業大博覧会の開催を決定する。そしてその関連施設として公会堂と富山市郷土博物館、すなわち富山城天守閣を建設していったのである。江戸時代の富山城には天守閣はなかったにもかかわらず、米軍からの解放を喜び、日本人の心を再生させるシンボルとして天守閣を作ったのである。このときの富川市長の思いを忘れてはならないと思う。
やがて昭和29年4月11日に富山産業大博覧会は開会し、55日間で百万人の入場者数を記録するという大成功を収めた。実はこの博覧会の宣伝のために3人構成のチンドン屋2組が県内を回ったことが記録されている。
その後、博覧会後のエアーポケットに落ちたかのように消費が冷え、商店街が沈滞する時期を迎える。そこで当時の商工会議所副会頭の瀬川朝秀氏がチンドンコンクールの開催を思いついたとされている。チンドン屋が多いわけでもない富山で提案した同氏には博覧会宣伝時のチンドンの記憶があったのかも知れない。やがて昭和30年4月に全国チンドンコンクールという他に例のないイベントがいよいよ幕を切ったのであった。
そして昭和から平成へと長い歴史を刻んできたのである。その間、長く裏方としてこのイベントを支えてきた高沢滋人氏の功績を忘れてはならない。司会・進行役、審査委員長として活躍された。何よりも全国から参加されたチンドンマンの協力が大きかったと思う。平成10年からは素人チンドンコンクールも併催。チンドンは富山を代表する大イベントとして進化したのである。平成17年にはサントリー地域文化賞の受賞もしている。昨年9月には「全日本チンドンコンクール」の登録名で商標登録の出願をし、現在審査待ちのところである。最近は予選を4ブロック各8チームに分ける方式として、プロの参加チームは32チームとなっている。コンクールの会場が富山県民会館なので雨天でも開催できるうえに、街流しやチンドン大パレードなどと一体に楽しむことができる。市民の皆さんには仮に桜が散ってしまったとしても各会場に足を運んで欲しいと思う。
ところでオープニングパレードのスタート時にチンドンマン全員で大合奏される「竹に雀」というお囃子をご存じだろうか。チンドンの世界のテーマソングである。数年前まで僕自身がソプラノサックスを演奏して職員とともに参加していたのだが、僕の練習不足が露呈して取りやめとなった。僕の演奏は人前で披露できる水準じゃないからねえ…。笑いは取れるかもしれないけれど。



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