嘘つきオジサンの時代なのだ!

森 雅志 2000.07


 一年ほど前のことだが、ある訴訟で証人として証言をした。当然のことながら僕は知るところに従い事実をありのままに述べた。
 ところが当事者の一方の連中からは不利益な証言をしたとして疎まれてしまい、今も閉口している。また、相手方の申立による証人呼出しに応じたこと自体がけしからんと言っている向きもある。しかしながら証人呼出しは裁判所が直接に命令するものであり、正当な理由なく呼出しを拒否できない国民の義務なのである。間違っても申立人に協力して出頭する類のものではなく、まして証言する以上は絶対に偽証できないのである。
 したがって証言内容がどんなに不都合でも僕は事実に則して述べるしかなく、彼らのように器用に事実を歪曲することはできない。事実と違うことを言うことは偽証することであり正義にもとるからである。不都合は僕の証言の前提たる彼ら自身の言動に起因しているのであり、責任は彼らが追う。
 一方で彼らはどういう行動をとったのか。驚くべきことに事実とは正反対のことを言ってはばからないのである。記録がないことをいいことに、みんなで事実をネジ曲げ、あるいは隠蔽してしまったのである。初めて被告という立場に立たされた狼狽があるとは言えとても五十代や六十代の人間のすることとは思えない。さらには嘘で固めた思考を継続するうちに虚構が真実であるかのように認識されている様子だ。唾棄すべきことである。そのうえ彼らの弁護士にも事実の積み重ねを基に訴訟を維持しようとする姿勢が見られない。「民事訴訟というのは偽証だらけのものだ」と公言する者もいる。
 昨今の官僚の不祥事にあっても同様に嘘や事実の歪曲が横行している。今や世も末、嘘つきの時代なのだ。かつての「正直で恥を知る」日本人はどこへ行ってしまったのかと思う。疎まれるのも不愉快だが、僕は嘘をついてまで世渡り上手になりたくはない。
 当然のことながら人間は自らの発言や行動に責任を持たなくてはならない。どんなに困惑しても自身の言動に正直でなくてはならない。少なくともそうありたいと僕は思っている。愚直でもいいから自らに恥じない人生を生きたいと思う。どんなに窮屈だ頑固だと批判されても、出来ないことを出来るとしたり言ったことを言わないとしたりすることだけはしたくない。痩せ我慢だと言われてもそれだけは絶対にしたくないと思う。(生きていくのはつらいものだ。)


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