日のにほひ

森 雅志 2007.11.05


 9月末に秋田を訪れた際、黄金色に光る田んぼの中を車で走る機会があった。さすがに秋田は稲刈りが遅いのだなァ、などと思いながら秋晴れの下にひろびろと波打っている稲の連なりに圧倒されていた。稲の香りをかごうと窓を開けてみたけれど走る車内からは感じることはできなかった。それでも稲の香りの記憶がよみがえり、同時に子供の頃の様々な思い出も湧き出してきてゆったりとした気分に浸ることができた。
 ところが同乗していた秋田市の若い職員から「稲の香りとはどんなものですか。」と尋ねられて困ってしまったのであった。農家の生まれならともかく、今どきの若者にとって稲の香りに触れる機会が無いことは当然なのかもしれない。「稲の香りこそ農の心の原点なのだ」などとうそぶきながら説明しようとしてみたものの、記憶の中の香りを伝えることは難しかったのだった。
 その日からずっと僕の中では稲の香りが引っかかっていた。心がのんびりとしてくる懐かしい香りのことをどうやって表現したらよいのだろうかと考えていた。ところが偶然目にした新聞の随筆で僕の思いを見透かしたかのような俳句を見つけることができたのである。伝えたかったのはまさにこれだ、と僕は感動しながら思った。その俳句とは俳人 長谷川素逝という人の次の句である。

 「ひろびろと稲架の日なたの日のにほひ」

俳人の言葉とはすごいものだ。子供の頃の懐かしい光景が目に浮かぶ。(我が家では稲架とは言わずハサと言っていたが、)ハサ掛けされた稲の香りがよみがえってくる。僕が伝えたかった香りとはまさにこの「日のにほひ」だったのだ。
 今はコンバインで稲刈りから脱穀まで一気にやってしまうから、稲をハサに掛けて天日で干す必要はなくなってしまった。作業をする生産者にとっては便利になったに違いないのだけれども、同時に「日のにほひ」も消えていったのだろうか。それとも刈り取り後の田んぼに立てば、今も稲の香りをかぐことができるのだろうか。ぜひ一度、田んぼの真ん中に立って思いっきり秋の空気を吸い込んでみたいものだ。
 それにしても心がぽかぽかと温かくなるような句だ。稲刈りの終わった田んぼを走り回ったことや、ハサ掛けの際に下から稲の束を投げて父親が受け取った瞬間のうれしかったことや、ハサの稲に悪ふざけでぶつかって叱られたこと、脱穀前にうず高く積まれた稲の山に登って叱られたことなどが懐かしく思い出される。秋の夕日が作る長い影や、ねぐらに帰るカラスの鳴き声までが懐かしい。
こういう句に出会うと、やはり日本人の心の原点に稲の存在があるのだと思わされる。だからこそ、それぞれの心にある稲の記憶や、今も残る農村風景を大切にしたいものだ。



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