上埜安太郎という人

森 雅志 2008.03.05


 上埜安太郎という人を知る人は少ないと思う。実のところ僕も最近までまったく知らなかった。ある席で富山県商工会連合会会長の石沢義文氏からその人となりを教えてもらい初めて知った次第。上埜安太郎は第9代の富山市長だった人であり、昭和5年から8年まで務めている。僕にしてみると大先輩の市長なのである。
 この人が富山県議会議員であった時に富山県議会史に特筆すべきエピソードを残しといることをうかがい、大いに驚かされた。
明治31年の通常県会で、県立第三中学校(魚津高校の前身)創設案が知事から提案され、議会において賛否の激論が交わされた。当時は魚津設置を主張する呉東勢と石動を推す呉西勢とが対立しており、上埜は石動の属する西砺波郡選出の議員であり、かつ県議会議長という立場であった。そういう背景の中で当局から魚津設置が提案されたのであった。「富山県議会百年のあゆみ」を開いてみたが、まさに大激論が展開されたようだ。最終的に議長が採決を取った結果、なんと可否同数となり魚津設置案の賛否は議長の意志によって決まることになったのであった。
 当時の中学校は富山と高岡にあり、県西部の県民は石動に新設することを目指して猛運動をしていた。しかし上埜は地元である石動案に与せず、魚津案に一票を投じ、議長の辞表を提出したのであった。石沢会長によればその時上埜は「自分は郡議会議員ではなく、県議会議員である。県民にとって何が利益なのかを考えなくてはならない。」と述べたとされている。政治にかかわる一人として、この上埜安太郎の態度に感服させられた。あっぱれである。
 しかし、もっとあっぱれなのは選挙民であった。上埜の態度や誠意を認めて、やがて彼を衆議院議員に選出していくのである。私心のない公平無私な立場で正論を吐く姿勢が政治家としての評価を高めたということだ。
 彼はその後、連続10回衆議院議員に当選し国政で活躍した後、高岡市長に就任し高岡高等商業学校の誘致を実現、そして富山市長に転じ市政の刷新と市民福利の増進に尽力したのであった。富山大百科事典によれば、その座右の銘は「天地無私心」だと記されている。大人物だったのだろう。
 思えば、世の中いたるところに人物はいるものだ。この稿で紹介した上埜安太郎のような先人もいれば、市井に埋もれていても素晴らしい人格者は多い。そして我々は、時にそういう人物から学ぶ機会を得ることがある。わが身に省みて猛省させられることもまた多い。大切なことはその学びの機会を見逃さないことだと思う。そして、学びを身につけることは難しくても自分を変えていく努力はしなければならない。修養を積むということか。
 上埜のように「天地無私心」という心境に達するのは難しくても、目指すことなら出来るはず…。



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