無遠慮時代

森 雅志 2008.06.05


 車を運転していて道を間違えることや、目的地を通過してしまうことは誰にでもあることだ。そんな時、平気で私有地に入って車の向きを変えたり、私有地を斜めに横断したりしている人を見かけることがある。
かく言う僕も、時にはコンビニなどの駐車場に「すみません」と言いながら小さくなって入り、向きを変えて出てくることがある。客でもないのに進行方向の修正のために駐車場を利用させてもらっているわけで、まことに気が引ける。そうは申せ、個人の住宅敷地や事業所の敷地に車を乗り入れて向きを変えるという大胆なことはとても出来ない。
 ところが最近こういう運転者を何度か見かけて嫌な気分にさせられている。先日は赤信号を待つのが嫌で、コンビニの駐車場を減速もせずに斜めに横切り左折していった乱暴者を見かけて唖然とした。コンビニの駐車場を借りて向きを変える行為と大差ないじゃないかと言われれば困るのだけれども、赤信号を待つのが嫌で他人の所有地を通過するということはあまりにひどいじゃないかと言いたい。止むを得ず駐車場などのスペースを利用させてもらうにしても、節度や遠慮というものがあるだろうと言いたいのである。
 そもそも運転というのは譲り合いが前提となっているものだ。エレベーターを使うに際しても電車の乗り降りにしても譲り合いや遠慮が働いてこそスムーズに流れるのである。ところが、ここのところ我が儘に行動する人が増えているようで気になる。無遠慮な時代になったとでも言おうか。
無遠慮な振る舞いは他にも見かけることができる。飲食店で子供が走り回っていても平気な親や、周囲を気にせず声高に話すグループを見つけるのは簡単だ。周りを気にする様子もなく大声で携帯電話を使う人も相変わらず多い。障害者用スペースに駐車する健常者や、電車やバスで大股を開いて座席を占領する人も目に付く。美術館で大音声をあげながら走っている人を見たこともある。
 こういった無遠慮な振る舞いが目立つようになった背景は、家庭の外に出ていても家庭内と同じ感覚で行動している人が増えているということではないかと思う。内と外の区別がつかなくなっているのだ。その最たるものが映画館の中での私語である。上映中に近くの会話がうるさくて困った人は多いと思う。しかし会話をしている側には、迷惑を掛けている意識はほとんど無い。彼らにしてみると居間で家族とホームビデオを見ている感覚なのだから、平気で出演者やストーリーの解説を始めるのである。家も外も自分たちの空間だと思っているのだから困ったものだ。
 もっと困ることは、そういう無遠慮が増殖中だということだ。だからコンサートや演劇の公演においても幕が開いた後も私語を聞くことがしばしばだ。そのうちに最も静粛が求められる葬儀や黙祷の際にも私語が飛び交う時代になるかも知れない。あな恐ろしや。



目次