ある本で「クラウディア最後の手紙」という物語を知った。戦後51年間、日本への帰国が許されずクラウディアというロシア人女性と夫婦として暮らしてきた日本人がずっと母一人娘一人で夫の帰りを待ちながら苦労してきた日本人妻と再会がかなったという物語である。映画「ひまわり」のマルチェロ・マストロヤンニのような人生を紡いできた日本人がいたということだ。 この物語については後日改めて紹介することとして、今日は森鴎外の短編集について書きたいと思い本稿となった。まったく突飛な展開だと思った読者が多いに違いない。僕自身も意外な展開に驚いているのだから。 「クラウディア最後の手紙」についてある人に語ったところ、それ鴎外の短編、「じいさんばあさん」に通じるね!と教えられた。不明にも森鴎外のその小説のことをまったく知らなかったので大恥をかいた次第。さっそく鴎外の短編を幾つか編んだ文庫本を取り寄せて「じいさんばあさん」を読むこととなった。それなりに唸らさせられる話であった。しかし、今日僕が書きたいことはその短編の内容ではない。買ったついでにと、その文庫本を通して読み終えた後の驚きについて伝えたいのである。結果として、「山椒太夫」、「最後の一句」、「高瀬舟」、「魚眼機」、「寒山拾得」、「興津弥五右衛門の遺書」、「阿部一族」、「佐橋甚五郎」などを読むこととなった。生意気な中学生だった僕がかつて走り読みした作品もあれば初めて読んだものもある。あらためて森鴎外の知識と教養の深さに完膚なきまでに叩きのめされた。7歳から9歳まで漢籍を学び、10歳からドイツ語を学び、12歳から第一大学区医学科(今の東京大学医学部)予科で学び初め、22歳でドイツ留学という英才である。いや天才である。それにしても彼の漢籍の知識と深さははかり知れない。淡々と静かに綴られる文章でありながらなんという奥行きであろうか。吾が身の非才を恥じ入るのみである。同じ森氏でありながら彼我の違いを思い知らされ落ち込んでいる。天才とはかくや!ということだ。 中学生の頃に読んで以来久しぶりに「高瀬舟」を読んだけれど、改めて足るを知ることの意味を考えさせられた。 その割には、昨日までのスマトラ島への出張中、アルコールの出てこないレセプションに不満を言っていたのは誰でしたかね。足るを知れば分かろうものを…。疲れていることもあり、凡人はせめて今夜はおとなしく寝るとしますかな。 昔、「読まずに死ねるか!」と言った読書家の芸人がいたけれど、今夜の僕は「飲まずに寝れるか?」と言ったところか。
(オウガイのオウの漢字が誤っていることが悲しい。何故かホームページビルダーを使ってアップすると文字化けしてしまう。古いソフトをいつまでも使っている哀れか。お詫びします。)
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