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	<title>エッセイ &#8211; 森雅志</title>
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	<description>森のひとりごと</description>
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		<title>充実の日々</title>
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		<dc:creator><![CDATA[森雅志]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 04 Mar 2021 23:30:32 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[エッセイ]]></category>
		<category><![CDATA[思い出]]></category>
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					<description><![CDATA[　市広報に掲載するエッセイは本稿が最後になる。長く市長職を続けさせてもらったことに対する感謝の思いを込めたエッセイにしなければと思うもののなかなか筆が進まないので、いっそ、最後だと意識せずにいつものように思いつくままに書 [&#8230;]]]></description>
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<p>　市広報に掲載するエッセイは本稿が最後になる。長く市長職を続けさせてもらったことに対する感謝の思いを込めたエッセイにしなければと思うもののなかなか筆が進まないので、いっそ、最後だと意識せずにいつものように思いつくままに書くこととしたい。</p>



<p>　僕が市長に就任した時は49歳であった。その時の助役が63歳、収入役は67歳の方であり、部局長は全て干支が一回り以上違う年長者であった。それが今では富山市役所の中で自分が一番の年長者になっている。鮮度が落ちるのは当然のことだ。僕は若い頃から一日に百回以上は「有難う」を口にしてきた。そして、年長者に対しては「有難うございます」と言ってきた。それが最近は「有難う」としか言わないことに気付いてショックを受けた。たいがい、年下の人と接しているからではあるものの、謙虚さに欠けているのではと反省している。</p>



<p>　在任中、絶えず現場主義で対応してきた。嫌なことから逃げずに現場の声を聞いてきた。職員を責めることはしないように努めてきた。責任は自分がとるから伸び伸びと仕事をするようにと推奨してきた。手柄は部下に、責任は自分にということを意識してきた。例外があったかもしれないけれど、思いは今も変わらない。</p>



<p>　そして50歳を過ぎてから、毎年新しいことに挑戦してきた。外から見ると遊び惚けているように映ったかもしれないが、すべては市政に生かしたいとの思いからである。</p>



<p>　51歳から始めた登山は市町村合併後の山小屋巡りに役立った。水上ラインのきっかけにしようと2泊3日で山中湖に行き、小型船舶の免許を取得してきたこともある。全国から集まってくれたチンドンマンに喜んでもらいたいという思いからアルトサックスを始めた。外国からのお客様を交えたパーティーで職員と一緒にスタンダードジャズの演奏もした。太郎平小屋までソプラノサックスを担いで登り、「見上げてごらん夜の星を」を演奏したこともあった。あまりに重かったので、翌年はオカリナを持参してごまかした。OECDやロックフェラー財団や国連本部などからシンポジウムへの参加を要請されることが多くなってからは着物の着付けを学んだ。会議終了後に催される懇親の場で着物姿を披露するためである。国連本部で開催された日本政府主催のパーティーに一重の着物で参加した際には大きな拍手をもらったが、僕の後からキティちゃんが現れると会場内の全ての関心がそちらに移ってしまったという経験もした。</p>



<p>　国際会議でのスピーチのために韓国語やイタリア語も学んできた。国内外の多くの会議に参加することは、市役所に自分がいない時間が増えるということになる。それでも参加した会議において富山市の取り組みを披露することの意義が大きいと思い、わがままを通させてもらってきた。議会や職員の、何よりも市民の皆さんの温かい理解があればこそのことだ。感謝に堪えない次第である。不在の時間を少なくしようとの思いから滅茶苦茶にハードなスケジュールの出張もしてきた。朝5時にバンコクに着き、同日の夜8時に帰国便に乗るということもあった。1泊3日でパリやミラノに赴いたこともある。褒められたものではないけれど…。</p>



<p> 　市長在任中、絶えず都市経営という視点を忘れず努力してきました。はたして市に貢献できたのか、市政の進展があったのかは心もとない次第ではありますが、多くの市民の皆様のご理解とお支えのお陰で充実した日々を持つことができました。言い尽くせないほどの感謝の思いでいっぱいです。有難うございました。これからの4分の1半生は“農の心”を大切に生きていこうと思います。果樹手伝い(見習い)ではありますが…。 </p>
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		<title>何故に仕事は楽しいか？</title>
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		<dc:creator><![CDATA[森雅志]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 04 Feb 2021 23:30:39 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[エッセイ]]></category>
		<category><![CDATA[家族・暮らし]]></category>
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<p>　この稿が市広報に掲載されるのは2月初旬である。僕が任期満了退任する日が視野に入ってきた時期だ。そして市広報に書く機会は2月号と3月号との2回しかないという現実もある。もうすぐ退任するという時期に、あと2回しか書けないという時期に、いったいどんなエッセイを書くべきなのかと悩んでしまった。あと2回しかないのだから真面目にテーマを探さなくてはならないなと考え込んでしまった。最終回は就任時から退任時までを振り返りつつ、市民の皆さんに対する感謝の思いを綴れば良いとして、はたして今回は何をテーマに書けば良いのか…。悩んだ果てに思いついたのが、「仕事は楽しい」ということであった。辞めていく者が後輩や若者に残していく、言わば送る言葉としての仕事感を述べることで今月号のエッセイとしたい。</p>



<p>　ずいぶん前のことだが、「朝、仕事に出かける時に今日は嫌だなと思ったことは無い」と言ったら、「幸せな人ですね」と言われた記憶がある。そのとおり、幸せだと思う。いつも楽しく仕事をしてきた。若い頃に個人事務所を開業して以来、いつも楽しんで仕事をしてきた。県議会議員をしていた時もその仕事に没頭し、誰よりも真剣にかつ楽しく議員活動をしてきたと思う。そして19年間にわたる今の仕事も本当に毎日楽しく働くことができた。「今日は嫌な日だな」と思って家を出た朝は一度もないと思う。毎日毎日、仕事が楽しいと思って過ごしてきた。仕事が楽しいのだから楽しい人生を送ることができた。幸せな人生であったと思う。もちろんこれからもそんな人生を続けていきたいと思っている。</p>



<p>　はたして、どうしたら毎日の仕事を楽しいと感じ続けることができるのか。参考にしてもらえるかどうかは疑問だが、僕なりの仕事を楽しむヒントを紹介してみたい。</p>



<p>　まず、仕事に積極的に、前向きに取り組むことが大切だと思う。仕事から逃げれば仕事は苦役となるが、前向きに臨めば歓びとなる。極端に言えば仕事に愛情を持つこと。そして仕事以外にも夢中になれるものを持つこと。この二つを両立させることが前向きに生きるためには重要だと思う。</p>



<p>　次に、ピンチの時にもユーモアを忘れないこと。困難な時にも余裕をもって笑い飛ばすような太っ腹が求められるということだ。笑いは力だと思う。</p>



<p>　そして、愚痴や悪口を言わないこと。人は自らに愚痴を言ったり、他者に対して悪口や罵詈雑言を言いたい生き物である。しかしそんな後ろ向きの思考からは何も生まれてこないものだ。他者から罵詈雑言を浴びせられても、変わった人に出会えるから人生は面白いなあ、などと楽天的に受け止める。そう考えれば他人に対して悪口を言うことのバカバカしさに気付くはずだ。</p>



<p>　また、日常の些細な変化にも感動する感性を持っていることが大切。アンテナを高くして暮らしていると毎日は発見の連続である。心動かされる事柄に満ちている。些細なことにも心を躍らせることが楽しさにつながると思う。</p>



<p>　自分に似合う身なりをいつも求めていることも大切だと思う。お洒落ごころを持つということだ。お洒落は心を豊かにし、満足感を与えてくれる。今日は大勝負だという日には、お気に入りのシャツを着るとか取って置きの靴下を履くとかすることで心に余裕が生まれる。お洒落は最高の戦力だと思っている。</p>



<p>　人はある種の気分で生きている。ネガティブな気分で暮らすよりもポジティブな気分で暮らす方がいいに決まっている。仕事も遊びも気分に左右されるものだ。だったら強力ポジティブ気分で生きていこうじゃないか。仕事も遊びも楽しんでいこうじゃないか。</p>



<p>　真面目に言います。楽しむことが一番。</p>
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		<title>キーワードの効果は？</title>
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		<dc:creator><![CDATA[森雅志]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 04 Jan 2021 23:30:01 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[エッセイ]]></category>
		<category><![CDATA[政治・政策]]></category>
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					<description><![CDATA[　僕は旧富山市の市長に就任以来、毎年の執務初め式においてその年のキーワードを披露してきた。年初にあたり、自分自身の心の芯棒を確認するという意味と、職員に対して仕事に取り組む際のヒントとしてほしいという思いを込めてのキーワ [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p>　僕は旧富山市の市長に就任以来、毎年の執務初め式においてその年のキーワードを披露してきた。年初にあたり、自分自身の心の芯棒を確認するという意味と、職員に対して仕事に取り組む際のヒントとしてほしいという思いを込めてのキーワードなのである。</p>



<p>　市長に就任したのが平成14年1月26日なので、最初の執務初め式は平成15年ということになり、令和2年まで合計18回の式で18のキーワードを発表してきたことになる。令和3年4月に退任するというこの機会に振り返ってみることとしたい。紙面の都合上、すべてを紹介することができないけれど、いくつかを拾って言葉に込めた思いをおさらいしてみたい。</p>



<p>　まずは平成15年、「シンク・ビッグ」、「スピード」というもの。文字通りに大きく大胆に考えてスピード感を持って働こうという意味。平成17年のものはユニーク。「他とは違っているか」、「新しい刺激に満ちているか」、「時の試練に耐えうるか」というもの。知り合いの会社で見かけて気に入り使わせてもらった。自分としては気に入っている。平成21年は「ネクスト・ステージ」。一段落しそうになった時にはもう次のステージの準備ができていなくてはならない。この頃からこのワードを使い始めたのだな。平成24年のものは「イマジネーション」。社会がどのように変化するのかを予測し一歩先を読む力が大切だと言いたかったのだが失敗作だったと感じている。平成25年は「機は熟すると言うが、そのことを待っていると腐敗する」。機が熟するのを待つという姿勢よりも、機を自ら作り出す姿勢が肝要だという意味。重い言葉だと思う。平成29年は「Go
Bold(大胆に行こう)&nbsp; Go Beyond(遠くを見据えて超えていく)」。将来を見据えて、縮こまることなく大胆に思い切り職務に取り組み自身の既成概念を超えていこうという思い。平成30年のものは「音叉の共鳴、そして共鳴の連鎖」というもの。組織が同じ意識や理解を共有することができれば音叉のように共鳴できると言いたかったのだが、誰もこのキーワードには共鳴してくれなかった。そして令和2年、「新・とやま新時代」というものを掲げた。路面電車の南北接続後の新しい時代の創造に向けて大胆な発想と行動力を持って頑張ろうと訴えたのだが、まさかコロナ禍という新時代になるとはね…。</p>



<p>　この19年の間に富山市役所という組織は確実に変化してきたと思う。それがキーワードの効果だとは言わないけれど、時代の変化を見据えて自らを変えていこうとする姿勢は広がったと確信している。もとより、大きな組織、集団なのだからいろいろな個性の集合体だ。中には僕の呼びかけに反発した人もいるだろう。逆の意見の人もいただろう。無視した人もいるだろう。でも共感してくれた人もいたに違いない。そんな人が一人でもいてくれたとしたら満足だ。おかしなキーワードに付き合ってくれた職員に感謝したい。</p>



<p>　さて、アメリカには「ハネムーン期間」という言葉がある。何かの運動のキーワードとは違うけれど、1月20日にバイデン新大統領の任期が始まるというタイミングなので本稿で紹介したい。「ハネムーン期間」とは政権交代後の最初の100日間のことを指す。アメリカでは報道機関も野党も、この100日間は新政権に対する批判や性急な評価を避けるという紳士協定がある。良い文化だと思う。</p>



<p>　僕の任期はあと100日余りとなった。集中して仕事に邁進したいと思っている。「ハネムーン期間」の逆の時期、最後の100日間にあたることから、暖かく支援していただきたい。(はたしてハネムーンの対義語は何て言うのだろうか？)</p>



<p>　ところで、今年のキーワードは？</p>



<p> 「立つ鳥跡を濁さず」とでもしますかな。</p>
]]></content:encoded>
					
		
		
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		<item>
		<title>注射信者のひとりごと</title>
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		<dc:creator><![CDATA[森雅志]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 04 Dec 2020 23:30:35 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[エッセイ]]></category>
		<category><![CDATA[思い出]]></category>
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					<description><![CDATA[　僕らの世代はお医者さんに診てもらう際には最後に注射をしてもらわないと物足りなさを感じる人が多いのではなかろうか。少なくとも僕はそうだ。だから、診察が薬の処方だけで終わろうとすると、思わず「先生、注射は無いんですか？」と [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p>　僕らの世代はお医者さんに診てもらう際には最後に注射をしてもらわないと物足りなさを感じる人が多いのではなかろうか。少なくとも僕はそうだ。だから、診察が薬の処方だけで終わろうとすると、思わず「先生、注射は無いんですか？」と口にしてしまう。医療の現場ではなるべく注射をしないという傾向にあることは分かっているのだけれども…。注射信者としては、注射をした方が回復が早いという思い込みを棄てることができず、ほとんど信仰のようになっているのだ。子どもの頃の注射で劇的に回復したという記憶がそうさせるのだろう。そうは申せ、そろそろ注射信仰を止めないと手に負えない高齢患者になってしまいそう。主治医の先生の処方通りに病気と向き合うことが一番。「あれ、注射は無いのか」などと思っても決して口にしてはいけないと肝に銘じている。</p>



<p>　そうは言っても、インフルエンザの予防接種となると話は別である。毎年ワクチン注射を受けている。感染して公務に穴をあけるということを避けたいとの思いからである。もっとも予防接種を受けたとしても万能と言う訳じゃなく、何年間に一度は感染してしまい、一週間程度の自宅隔離を余儀なくされる。この稿を書くにあたり、一番新しいインフルエンザの感染はいつだったのかと気になり、自分のブログを遡ってみた。意外にも前のことで驚いたが、2014年の2月に一週間の隔離休暇をもらっていた。ブログの文章を読み直してみると、同居している娘との食事も避けるという徹底した家庭内隔離をしていたうえに、熱が下がり体調が回復してからも更に2日間の自宅待機をしていた。誰かに感染させる可能性があるのだから当然である。おそらく電話とメールで仕事をしていたのだろうなあ。いろんな人に迷惑を掛けたに違いないと思うと今になっても反省させられる。それでもその後の6年半は一度も感染していないということだ。予防接種のお陰であろう。僕自身は今年の接種を10月の初めにしたが、65歳以上の方には無料接種券が配付されているので多くの方に接種してほしいと願っている。もちろん子どもから大人まで多くの方にも受けてほしい。新型コロナとインフルエンザの同時流行だけは避けたいと思うからである。</p>



<p>　ところで注射信者としては昔と最近の注射事情を比較して不思議に思うことが何点かある。思いつくままに列挙してみたい。</p>



<p>　まず、小学生の頃の集団接種において一本の注射で何人もの生徒が注射されていた記憶があるが、よくぞ無事でいたものだと思うこと。そのうえ昔の注射はとても痛かった記憶があるが今はそうでもないということ。昔は注射の後でよく揉むように言われたが、今は逆に揉まないように言われること。昔は注射をした日には入浴しないように注意されたが今は違うこと。などなどであるが、すべては医療の進歩の賜物ということだろう。その延長線上にあるのが冒頭に書いた注射をしない診療ということになるのだろうなあ。やっぱり注射信仰を棄てる時ということか。</p>



<p>　先に紹介したブログの中に子どもの頃の記憶を書いている部分があり読んでみて懐かしい思いにさせられたので披露してみたい。</p>



<p>　「目を閉じていると時計の秒針が刻む音が耳につく。急に子どもの頃に風邪で学校を休んで家で寝ていた時のことを思いだす。誰もいない家の中で一人で布団に寝ながら時計の音だけが耳に響いてきて寂しかった記憶だ。時計の音は容赦が無い。確実に時の経過を刻む。自分だけが無為に過ごしているようで不安にさせる。早く学校に行きたいと泣きそうになりながら思っていた記憶が甦ってきた。」というもの。改めて童心を思い出せられているが、この時も近くの医院で痛い注射をしてもらって家で寝ていたのだろうなあ。</p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>いつも農作業を手伝ってきた？</title>
		<link>https://morimasashi.jp/2020/11/05/%e3%81%84%e3%81%a4%e3%82%82%e8%be%b2%e4%bd%9c%e6%a5%ad%e3%82%92%e6%89%8b%e4%bc%9d%e3%81%a3%e3%81%a6%e3%81%8d%e3%81%9f%ef%bc%9f/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[森雅志]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 04 Nov 2020 23:30:27 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[エッセイ]]></category>
		<category><![CDATA[家族・暮らし]]></category>
		<category><![CDATA[思い出]]></category>
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					<description><![CDATA[　過日、コンビニに行こうと軽四で道路を走っていたところ、道路上に大量の梨が転がっていて二人の人が慌てて拾っているところに出くわした。この道路は僕が中学生の頃に農道として整備された、直線で走りやすい道であり、梨の最盛期には [&#8230;]]]></description>
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<p>　過日、コンビニに行こうと軽四で道路を走っていたところ、道路上に大量の梨が転がっていて二人の人が慌てて拾っているところに出くわした。この道路は僕が中学生の頃に農道として整備された、直線で走りやすい道であり、梨の最盛期には収穫した梨を運ぶトラクターや軽トラと一般の乗用車などで混雑することが多い。いずれにしても、僕が状況に気づいたときには対向車線には既に5、6台の車が走行できずに停まっていた。僕は車を左側に停めて、転がった梨を拾おうと走って行った。周囲に迷惑を掛けてしまって申し訳ないといった風情で黙々と梨を拾っているのは近所の人であった。時々、僕の梨畑での作業にアドバイスをしてくれる80代の男性と彼の息子の妻の二人である。失敗したという気持ちで緊張しながら作業をしている二人の心を少しでも和らげようと、「僕も若い時に満杯の箱をひっくり返したことがありました…。」と言いつつ作業を急いだ。気が付くと、若い男女3名が一緒になって作業をしてくれていた。車から満杯の梨の箱が落ちたのだから、転がっている梨はほとんどが割れて果汁が浸み出しているので手がべたついてしまうのに、嫌がらずに手伝ってくれる若者の姿にほっとさせられた。彼ら以外の車から新たに手伝おうとする人は現れなかったけれど、クラクションを鳴らす人はいなくて、静かに作業が終わるのを待ってくれていた。まだまだ助け合いの心が生きていることに触れて嬉しくなった。作業が進み1車線程度の幅で通行できるようになるとお互いに譲り合って交互に通行している様子もまた嬉しく感じた。みんな忍びざるの心を持っているということだ。</p>



<p>　ちなみに、僕が若い頃に梨の箱をひっくり返したのは自宅の敷地内であったものの、両親が丹精込めて栽培してきた成果品を台無しにしてしまったという後ろめたさで小さくなっていた。そんな僕に対して父が「まあ、大なり小なりみんなやってることだ。」と慰めてくれた。忘れられない記憶である。</p>



<p>　僕は、毎日忙しく農作業に励む両親のために一生懸命に手伝いをするという健気な少年ではなかった。それでもたまに手伝いに駆り出されたものだ。そんな記憶を辿ってみると、よくぞ無事だったなと思わされる失敗ばかりが浮かんでくる。思い出せる失敗話の幾つかを綴ってみたいと思う。</p>



<p>　小学生の頃に茶畑で新茶葉をいっぱいに入れた畚（藁で編んだ籠、当時わが家ではドーハと言っていた）をリヤカーで運んでいてひっくり返してしまったこと。</p>



<p>　中学生の時に耕運機でリヤカー状のものを牽引する装置を運転していて側溝に落ちる寸前という危険な瞬間があったこと。</p>



<p>　乗用の防除機が無かった頃の農薬散布作業は固定した動力噴霧器から長いホースを伸ばして行っていたのだが、梨の樹に噴霧する父のやりやすいようにホースを引いたり押したりすべきなのに要領が悪くて長いホースを絡ませたうえに足を取られて思いっきりコンクリート柱に頭をぶつけてしまったこと。</p>



<p>　脱穀機などを動かすための農業用三相交流電源をいじっていて感電したこと。</p>



<p>　この歳になっても子どもの頃の失敗を忘れることはできない。その殆どは親にも友達にも言わず、そっと胸の奥に隠してきたものだ。不思議なことに最近になってそんな小さな秘密を告白したくなり、この稿を書いた次第。父が入院し母が施設でお世話になっている今、両親の若い頃からの苦労をしのびつつ、残された梨畑を何とか維持していこうとする思いがそうさせたのかもしれない。ほとんど梨栽培の知識がないけれど門前の小僧の記憶に頼りながら、かつ近所の人に助けられながらなんとか今年の収穫を終えることができた。失敗談を披露することで心をリセットして秋の剪定作業から再挑戦だ。</p>



<p>　さて、来年はどんな梨が取れることやら？楽しみながら頑張りたいと思っている。</p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>「少年よ大志を抱け」で思うこと</title>
		<link>https://morimasashi.jp/2020/10/05/%e3%80%8c%e5%b0%91%e5%b9%b4%e3%82%88%e5%a4%a7%e5%bf%97%e3%82%92%e6%8a%b1%e3%81%91%e3%80%8d%e3%81%a7%e6%80%9d%e3%81%86%e3%81%93%e3%81%a8/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[森雅志]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 04 Oct 2020 23:30:53 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[エッセイ]]></category>
		<category><![CDATA[出来事]]></category>
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					<description><![CDATA[　タイトルの言葉は、あのクラーク博士の言葉である。クラーク博士は札幌農学校の初代教頭として日本に招かれ、アメリカ式の教育プログラムを導入し、非常に高水準な教育を実現したと言われている。赴任期間を終えた彼は翌年に日本を離れ [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p></p>



<p>　タイトルの言葉は、あのクラーク博士の言葉である。クラーク博士は札幌農学校の初代教頭として日本に招かれ、アメリカ式の教育プログラムを導入し、非常に高水準な教育を実現したと言われている。赴任期間を終えた彼は翌年に日本を離れることになり、農学校を去るときに学生たちに向けて馬上からかけた言葉が「ボーイズビーアンビシャス」であった。それが「少年よ大志を抱け」と翻訳され、若者たちへの激励の言葉となっていったとされている。</p>



<p>　ところが、この時の挨拶については正確な記録がなく、「お金や欲望、名声のためではなく、人としてなすべきことのために大志を持ちなさい」というものであったという説もある。しかし、馬上でこんなに長い挨拶をするのは不自然だとして、この説は信憑性が低いとするのが大勢である。また、教え子だった人が「みんな私のように野心的でありなさい」と言ったと紹介している記録もある。さらには、別れ際に「まあ、お前ら頑張れよ！」という程度の軽い言葉だったという推察もある。</p>



<p>　人の口から出た言葉というものはこの例に見られるように独り歩きしがちである。発言者の知らないところで思いもしない意味付けがされることもある。僕自身も真意とは全然違う意味の発言と受け取られて閉口したことがある。会話音として発した言葉が活字化されると微妙にニュアンスが変わったり、同音異義語として受け取られることもあるのだ。今は、勝手に録音されて加工されることさえあるのだから、もうお手上げ状態である。まあ、自らの真意は一つしかないのだから、周囲の騒音など無視すれば良いと思っている。</p>



<p>　一方では、ある言葉の意味について自分の理解とは全く違う解釈があることを知り驚かされることもある。例えば藪医者という言葉である。一般には、適切な診療能力を持たない医師を指す蔑称であろう。ところが、藪医者ではなく「養父医者」と書き、名医を指す言葉なのだとする解釈があるらしい。但馬国の養父にいたという名医が語源であり、その人の名声を悪用して「養父医者」の弟子を語るものが続出して、「養父医者」の評判が悪くなり「藪医者」に変化したのではないかとする説である。兵庫県の養父市では、へき地医療をする若手医師を対象にした「やぶ医者大賞」という表彰をしているそうだ。面白い。</p>



<p>　また、いろいろな解釈があって、よく論争になるのがダーウィンの次の言葉である。「強いものが生き残るのではなく、賢いものが生き残るのでもない、唯一生き残るものは変化できるものである」という言葉。実に奥が深い。現状に満足することなく絶えず自らを変化させることが大切だという戒めの言葉のようであり、生き残るためには変化のための努力を怠るなと言う意味にもとれる。ところが最近よく言われる解釈は次のようである。「生物の同じ種の中でも個体によって形質にばらつきがある。例えば長身のものが有利な環境に暮らすと長身の個体が長生きをして子孫をたくさん残す、結果として環境により適応した形質を持つ個体が増えていくことになる」という説だ。つまり、ダーウィンの進化論は、ある集団にどんな変化が起こったかということに視座があるのであり、個体の話ではないということだ。言い換えれば、環境に適応した個体がより良い子孫を残し、強い集団を形成していくということだ。集団を組織と置き換えて考えてみよう。環境や時代に適応して変化できる個体をたくさん持つ組織が強くなるということだろう。年老いた僕にはそんな適応能力はない。適応能力を持つ組織を牽引できる、そして組織力を最大化できる新しいリーダーの出現こそが必要なのだ。それが組織を変化させることに繋がるからである。</p>



<p>　いずれにしても言葉使いは難しい。だからこそ面白いのだけれども。</p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>きみに読む物語</title>
		<link>https://morimasashi.jp/2020/09/05/%e3%81%8d%e3%81%bf%e3%81%ab%e8%aa%ad%e3%82%80%e7%89%a9%e8%aa%9e/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[森雅志]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 04 Sep 2020 23:30:28 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[エッセイ]]></category>
		<category><![CDATA[家族・暮らし]]></category>
		<category><![CDATA[愛のかたち]]></category>
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					<description><![CDATA[　現在、父はある病院に入院している。過日、元気にしているだろうかと気にしながら病室に赴いた。入り口で検温などの手続きを済ませて病室に行ってみると、ベッドががら空きであった。近くにいた看護師の方に「リハビリにでも行っている [&#8230;]]]></description>
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<p>　現在、父はある病院に入院している。過日、元気にしているだろうかと気にしながら病室に赴いた。入り口で検温などの手続きを済ませて病室に行ってみると、ベッドががら空きであった。近くにいた看護師の方に「リハビリにでも行っているのですか？」と尋ねると、優しく笑いながら「違います。」と答えてくれた。すると他の看護師の人も寄ってきて、同じように、優しく、かつ楽しげに笑っている。僕が訝しげにしていると、併設されている老人保健施設に入所している母に会いに行っていると教えてくれた。実は病院に父が入院していて、併設の施設に母が入所しているという状況なのである。聞けば、毎週月曜日の午後3時に、まだ要介護認定を受けていない96歳の父が病院のスタッフに同行してもらいながら、認知症の92歳の母のところに楽しげに通っているのだと言う。もっとも母は、前の週に父と会っていたことをすっかり忘れていて、毎週、久しぶりに会ったと嬉しげにしているとか。それでも父は毎週楽しみにして会いに行っているらしい。このことを知らされた僕は少しばかり感動してしまった。こんな幸せな夫婦はめったにいないだろう。96歳と92歳でありながら、週に一度のデートができるなんて。前週に会ったことは忘れていても、お互いのことは分かっているのだから、家族のことや昔の思い出話は普通にできる。その程度の認知症なのだから、デートは楽しいものに違いない。70数年夫婦を続けてきたのだから、何も話さなくても分かり合えているのだろうけれども、週一の逢瀬を楽しめるのだから本当に幸せな老夫婦だと思う。</p>



<p>　そんなことを思っていると、大好きな作品の一つである映画を思い出した。ニコラス・スパークスのベストセラー小説を原作として製作された「きみに読む物語」である。詳細な説明は省くけれど、長い間寄り添った夫婦の一生の物語で、年老いて認知症を患い施設に入所している妻に何とか二人の日々を思い出させようとして、夫も同じ施設に入り、毎日のように本を読み聞かせる時間を設けて、二人の若い頃からの日々を小説を読むようにして語り続けるというストーリーである。わが父に小説風に語りかける術はないけれど、来し方のあれこれや、子どもたちのこと、孫やひ孫のこと、梨畑のことなどを語り合っているに違いない。二人の週一デートが長く続くことを願うばかりである。</p>



<p>　これから、高砂人形や翁媼人形のように超長寿のカップルが増えていくことだろう。「お前百まで、わしゃ九十九まで、ともに白髪の生えるまで」が現実になってきているのだ。ところが、片方が要介護認定を受けていて、もう片方は認定を受けていないという場合に、一緒に入所しようとすると、「住宅型有料老人ホーム」か「サービス付き高齢者向け住宅」とかが考えられる。この場合、居宅介護サービスを受けることとなり、施設介護サービス水準という訳にはいかない。一方、片方が介護認定を受けて入所している施設に、要介護状態ではないパートナーが同居することは現状の制度では困難なのである。しかしながら、介護程度の差を超えて一緒にいたいと望む人は増えてくると思う。もちろん自己負担は大きくなるけれども、我が両親のようなカップルが一緒に入所できる施設介護サービスということを考える時代が来ているのかもしれない。難しい課題である。</p>
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		<title>雑学 トイレ考</title>
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		<dc:creator><![CDATA[森雅志]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 04 Aug 2020 23:30:51 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[エッセイ]]></category>
		<category><![CDATA[政治・政策]]></category>
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					<description><![CDATA[　今日は7月14日。おー、今日はパリ祭か！などと思っているところに秘書課長からメールが届いた。曰く、「広報のほっと・エッセイの原稿の締め切りは明日です」と。メールを見た瞬間に、頭の中が大混乱状態になった。締め切りまでにも [&#8230;]]]></description>
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<p>　今日は7月14日。おー、今日はパリ祭か！などと思っているところに秘書課長からメールが届いた。曰く、「広報のほっと・エッセイの原稿の締め切りは明日です」と。メールを見た瞬間に、頭の中が大混乱状態になった。締め切りまでにもう少し日があるものと勝手に考えていたので、何の準備もアイデアも無く、うろたえてしまった。仕方がないので、また雑学シリーズでお茶を濁すこととしたい。ご寛恕いただきたい。　</p>



<p>　ずいぶん前のことだが、トイレの呼び方はなぜこんなに多いのかと気になり調べてみたことがある。（清水義範さんの「日本語必笑講座」では楽しく学ばせてもらった。）</p>



<p>　理由はもちろん便所とストレートに表現するより婉曲に表現した方がふさわしい状況が多くあるからであろう。そのため「お手洗い」と言ったり「洗面所」と言ったりするのだ。手や顔を洗いたくてそこに行くのではなく、用を足したいのだけれども、ストレートに言うことが恥ずかしいので、そういう表現が多用される。清水さんの著書によれば、そもそもトイレという言葉も同じ成り立ちなのだそうだ。英語でトイレット、フランス語でトワレというのは、洗面とか洗顔という意味であるらしい。また、WCというのはwater closetの略で、水洗便所のことだが、ストレートな表現をしないで、水の小部屋と言っているのだそうだ。ズバリ言うのを避けたいという心理は外国でも同じということだ。</p>



<p>　柔らかく表現しようとするために、トイレを表す言葉のなんと多いことか。「厠」「雪隠」「ご不浄」「手水」などの言い方が古くからあり、今、日常的に使われているものとしては「洗面所」「手洗い」「化粧室」「レストルーム」などがある。</p>



<p>　ところがみんなが例えば「手洗い」を使っていくと、やがてこの言葉が便所を表しているという認識が共有されることとなる。そこでまた新しい表現を見つけたくなるという次第で、結果として便所を表す言葉が増産されるらしい。</p>



<p>　昔の表現で面白いものを知った。「閑所」（かんじょ、または、かんぜ）というもので、そこが寂しい場所だからであろう。確かに集団で利用する場所ではないからね（もっとも連れションと言う言葉があるけどね）。50歳で登山を始めた時に、登山では用を足すために登山道を外れるときには「キジを撃ちに行く」と言い、女性の場合は「花を摘みに行く」と言うと教わった。なんともお洒落な言い回しじゃないか。言い換えることを楽しんでいるようでもある。</p>



<p>　ところで富山市では現在、市立小・中学校の和式トイレと公園内の和式トイレの洋式化に取り組んでいる。まずは学校の方だが、すでに洋式化の済んでいる学校を除いた小学校62校と中学校23校の計85校について改修事業が進んでいる。中には地元から和式のものを残してほしいという要望が出たケースもあるので、それを控除した残りのすべてを洋式化する。全部で1,584台の改修であり、令和3年3月までに終了する予定だ。次に公園のトイレだが、その大半は設置してから30年以上経過したものであり、大半は和式便所で整備されてきた。そこでこちらも思い切って改修することとした。全部で82公園、229台の便器について令和3年7月までに洋式化を終えることにしている。生活様式の変化に伴い和式便器の使えない子どもや、足腰の弱い高齢者、さらには外国人の定住者や観光客の増加など、学校や公園の利用にも変化がみられる。その変化に一日も早く対応するために、確実に整備を進めたいと思っている。乞うご期待というところです。</p>



<p>（参照・引用：清水義範著「日本語必笑講座」）</p>
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		<title>雑学 二宮尊徳</title>
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		<dc:creator><![CDATA[森雅志]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 04 Jul 2020 23:30:43 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[エッセイ]]></category>
		<category><![CDATA[思い出]]></category>
		<category><![CDATA[政治・政策]]></category>
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					<description><![CDATA[　小学４年生の時に、アメリカの大統領であったジョン・F・ケネディが日本人の中で一番関心がある人物として上杉鷹山の名前を挙げたことを知って驚いた。当時の僕は、不明にも上杉鷹山という人の存在を知らなかったからである。何日か図 [&#8230;]]]></description>
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<p>　小学４年生の時に、アメリカの大統領であったジョン・F・ケネディが日本人の中で一番関心がある人物として上杉鷹山の名前を挙げたことを知って驚いた。当時の僕は、不明にも上杉鷹山という人の存在を知らなかったからである。何日か図書館に籠もり、上杉鷹山に関する書籍をむさぼり読んだ記憶がある。</p>



<p>　バブル崩壊の後に幾つもの大企業が破綻した時代があったが、そういう事態に接して日本社会が抱える制度疲労や悪弊がいかに深刻であるかということを思わされた。そして上杉鷹山に代表される江戸時代の財政再建の指導者たちに興味を持ち、備中松山藩の再建に取り組んだ山田方谷や、上杉鷹山の師である細井平洲などの伝記ものを乱読した。</p>



<p>　その頃に二宮尊徳についても興味を持てば良かったのだろうが、漠然としたイメージだけで二宮尊徳を理解したつもりでいて、改めて調べてみるということをしなかった。ところが最近になって、二宮尊徳の功績を広めるために「二宮金次郎」という映画が製作されていて、全国の公民館などで上映をする運動をしているグループの存在を知り興味を持った。かつては小学校の校門の近くに必ずと言っていいほどに「二宮金次郎」の銅像が設置されていた。薪を背負って読書をしながら歩く少年の姿は、家の手伝いをしながらも学びを怠らない理想の姿として日本中に広められていた。ちなみに現在の富山市内の「二宮金次郎」像の設置状況は、小学校19校、中学校２校に設置されている。</p>



<p>　この像のお陰で少年二宮金次郎は多くの人に知られているのだけれども、大人になっての功績を知る人はあまり多くないと思う。本稿では大人の二宮尊徳があげた功績について簡単に述べてみたい。</p>



<p>　彼は現在の神奈川県小田原市内の村で比較的裕福な農家の長男として生まれた。やがて川の氾濫により一家が所有していた農地の大半が流されるという悲劇に見舞われてしまう。そのうえ両親が失意の中で他界。しかし彼は、荒れた空き地で菜種を育てて収穫したことで小さな努力を積み重ねることが大切だという「積小為大」の考えを体得する。この考えのもと努力を重ね、やがて実家の再興に成功する。その成功を目にした小田原藩は家老服部家の財政再建を依頼する。それを成功させたことにより、さまざまな大名・旗本などから財政再建の依頼が続くこととなっていく。</p>



<p>　その頃は大飢饉が続き農村が疲弊しきっていた時代であったが、彼が再建の手ほどきをした村は600カ所以上にのぼったと言われている。</p>



<p>　多くの藩や旗本領の侍たちができなかったことを何故彼が成し遂げられたのか。それは勤勉さの勧めだけではなく、彼の優れた経済的な見通しと実行力があったからであろう。</p>



<p>　例えば、飢饉の際には年貢の取り立て率を下げるということをやっている。今で言う納税猶予や減免をして離農や離村者を出さないようにしたのである。藩主をはじめとする侍たちが窮乏を我慢することで年貢の総額を抑え、農民の意欲を高め人口増につなげるという発想だ。愛民という封建道徳の論理である。</p>



<p>　また、当時の侍階級は資本を回転して儲ける商人を蔑んでいた。蔑みながらもその商人から借金をするというのが財政危機に陥る一つのパターンであった。そういう状況に対しての彼の功績が「五常講」という講制度である。藩の使用人や武士の生活のためにお金を貸し借りできる仕組みで、今で言う信用組合のようなものだ。資本の回転である。二宮尊徳はその時代の農家でありながら商人的な「資本の論理」を理解していたのだろうなあ。積小為大という「封建道徳の論理」と「資本の論理」を併せ持っていたのであろう。</p>



<p>　先に紹介した映画をぜひとも見てみたい。</p>
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		<title>新規製造物禁止令</title>
		<link>https://morimasashi.jp/2020/06/05/%e6%96%b0%e8%a6%8f%e8%a3%bd%e9%80%a0%e7%89%a9%e7%a6%81%e6%ad%a2%e4%bb%a4/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[森雅志]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 04 Jun 2020 23:30:47 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[エッセイ]]></category>
		<category><![CDATA[政治・政策]]></category>
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					<description><![CDATA[　徳川家第８代将軍の徳川吉宗の名を知る人は多いと思う。幕府財政の再建を目的とした享保の改革を主導した人であり、中学生の頃に習った日本史では江戸時代における名将軍の一人として教えられた印象がある。米価や物価の安定政策として [&#8230;]]]></description>
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<p>　徳川家第８代将軍の徳川吉宗の名を知る人は多いと思う。幕府財政の再建を目的とした享保の改革を主導した人であり、中学生の頃に習った日本史では江戸時代における名将軍の一人として教えられた印象がある。米価や物価の安定政策としての倹約や増税、目安箱の設置、小石川養生所の開設などを行った人物であると記憶している。</p>



<p>　その徳川吉宗が行ったものであまり知られていない事例を２件紹介してみたいと思う。その一つは日本全国の人口調査を行ったことである。1720年を起点として６年ごとの人口調査を命じたのである。この調査は1721年から1864年までの間に25回行われていて、資料として使えそうなものは18回分だけだとされている。なお当時の調査対象には武家やその使用人は含まれていないため、（何故なら課税徴税のための調査だからであろう。）今の時代の人口統計調査とはかけ離れた調査となっている。そういう調査ではあるものの面白い現象を示しているようだ。18回分の調査を通して人口はほとんど変化せず、平均すると約2,615万人となっている。もとより大飢饉があった年次には調査どころではなかったと思われ資料が残されていない。いずれにしても江戸時代後半のわが国は人口を増加させることができずにいたのであった。それが明治維新を迎えるとあっという間に人口増に転じた訳で、面白い現象だと思う。</p>



<p>　そのことに大いに関係するのだけれども、吉宗の改革の中でもう一つの特徴的なものを紹介したいと思う。それが1720年に出した新規製造物禁止令というものなのである。吉宗は次のように考えたらしい。「今、世上に売り買うよろずの品物、何一つ備わらぬことなきに、なお多く造り出さば、人々身の程に超えて買い求るようになり、自ら家資窮乏し、国の衰えとなる」と。さらに、例えば高瀬川ができたことで琵琶湖から京への物資の輸送が便利になった半面、牛馬で物資輸送をしていた生業が衰退したことを憂えたのであった。その結果として新田開発は行われなくなり、鉱山においては新しい鉱脈の発見が滞ることとなった。こんな馬鹿げた命令が出れば、人々の創造性は破壊され、経済は完全に停滞してしまうことは当然の結果である。その結果の大きなものが先に紹介した人口の停滞なのである。</p>



<p>　５代将軍である綱吉の「生類憐みの令」は悪法として有名だが、吉宗の「新規製造物禁止令」はもっと悪法であると思う。</p>



<p>　わかりやすい例を示すと、佐渡金銀山の出銀高も別子銅山の出銅高も1720年から明治維新までの150年間はほぼ横ばいであったが明治維新後に急増しているのである。新田開発や農業用水の新設などの農業用土木工事についても同じことが言えると思う。人口や経済が停滞すれば国力が落ちることは僕のような経済の専門家じゃない者の目から見ても自明のことである。開国と政体の転換は必然だったと思わされる。</p>



<p>　言葉をかえれば、規制緩和とイノベーションがいかに重要なものであるかを物語っていると思う。前時代的なものには何の価値もないと言うつもりはない。不易流行こそが重要だと言いたいのである。本質的なものを忘れない中にも、新しく変化を重ねていくことであろう。そして今、イノベーションが求められる時代が来ているのだ。</p>



<p>（参照：板倉聖宣著「日本史再発見」）</p>
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