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	<title>思い出 &#8211; 森雅志</title>
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	<description>森のひとりごと</description>
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		<title>充実の日々</title>
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		<dc:creator><![CDATA[森雅志]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 04 Mar 2021 23:30:32 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[エッセイ]]></category>
		<category><![CDATA[思い出]]></category>
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					<description><![CDATA[　市広報に掲載するエッセイは本稿が最後になる。長く市長職を続けさせてもらったことに対する感謝の思いを込めたエッセイにしなければと思うもののなかなか筆が進まないので、いっそ、最後だと意識せずにいつものように思いつくままに書 [&#8230;]]]></description>
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<p>　市広報に掲載するエッセイは本稿が最後になる。長く市長職を続けさせてもらったことに対する感謝の思いを込めたエッセイにしなければと思うもののなかなか筆が進まないので、いっそ、最後だと意識せずにいつものように思いつくままに書くこととしたい。</p>



<p>　僕が市長に就任した時は49歳であった。その時の助役が63歳、収入役は67歳の方であり、部局長は全て干支が一回り以上違う年長者であった。それが今では富山市役所の中で自分が一番の年長者になっている。鮮度が落ちるのは当然のことだ。僕は若い頃から一日に百回以上は「有難う」を口にしてきた。そして、年長者に対しては「有難うございます」と言ってきた。それが最近は「有難う」としか言わないことに気付いてショックを受けた。たいがい、年下の人と接しているからではあるものの、謙虚さに欠けているのではと反省している。</p>



<p>　在任中、絶えず現場主義で対応してきた。嫌なことから逃げずに現場の声を聞いてきた。職員を責めることはしないように努めてきた。責任は自分がとるから伸び伸びと仕事をするようにと推奨してきた。手柄は部下に、責任は自分にということを意識してきた。例外があったかもしれないけれど、思いは今も変わらない。</p>



<p>　そして50歳を過ぎてから、毎年新しいことに挑戦してきた。外から見ると遊び惚けているように映ったかもしれないが、すべては市政に生かしたいとの思いからである。</p>



<p>　51歳から始めた登山は市町村合併後の山小屋巡りに役立った。水上ラインのきっかけにしようと2泊3日で山中湖に行き、小型船舶の免許を取得してきたこともある。全国から集まってくれたチンドンマンに喜んでもらいたいという思いからアルトサックスを始めた。外国からのお客様を交えたパーティーで職員と一緒にスタンダードジャズの演奏もした。太郎平小屋までソプラノサックスを担いで登り、「見上げてごらん夜の星を」を演奏したこともあった。あまりに重かったので、翌年はオカリナを持参してごまかした。OECDやロックフェラー財団や国連本部などからシンポジウムへの参加を要請されることが多くなってからは着物の着付けを学んだ。会議終了後に催される懇親の場で着物姿を披露するためである。国連本部で開催された日本政府主催のパーティーに一重の着物で参加した際には大きな拍手をもらったが、僕の後からキティちゃんが現れると会場内の全ての関心がそちらに移ってしまったという経験もした。</p>



<p>　国際会議でのスピーチのために韓国語やイタリア語も学んできた。国内外の多くの会議に参加することは、市役所に自分がいない時間が増えるということになる。それでも参加した会議において富山市の取り組みを披露することの意義が大きいと思い、わがままを通させてもらってきた。議会や職員の、何よりも市民の皆さんの温かい理解があればこそのことだ。感謝に堪えない次第である。不在の時間を少なくしようとの思いから滅茶苦茶にハードなスケジュールの出張もしてきた。朝5時にバンコクに着き、同日の夜8時に帰国便に乗るということもあった。1泊3日でパリやミラノに赴いたこともある。褒められたものではないけれど…。</p>



<p> 　市長在任中、絶えず都市経営という視点を忘れず努力してきました。はたして市に貢献できたのか、市政の進展があったのかは心もとない次第ではありますが、多くの市民の皆様のご理解とお支えのお陰で充実した日々を持つことができました。言い尽くせないほどの感謝の思いでいっぱいです。有難うございました。これからの4分の1半生は“農の心”を大切に生きていこうと思います。果樹手伝い(見習い)ではありますが…。 </p>
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		<title>注射信者のひとりごと</title>
		<link>https://morimasashi.jp/2020/12/05/%e6%b3%a8%e5%b0%84%e4%bf%a1%e8%80%85%e3%81%ae%e3%81%b2%e3%81%a8%e3%82%8a%e3%81%94%e3%81%a8/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[森雅志]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 04 Dec 2020 23:30:35 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[エッセイ]]></category>
		<category><![CDATA[思い出]]></category>
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					<description><![CDATA[　僕らの世代はお医者さんに診てもらう際には最後に注射をしてもらわないと物足りなさを感じる人が多いのではなかろうか。少なくとも僕はそうだ。だから、診察が薬の処方だけで終わろうとすると、思わず「先生、注射は無いんですか？」と [&#8230;]]]></description>
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<p>　僕らの世代はお医者さんに診てもらう際には最後に注射をしてもらわないと物足りなさを感じる人が多いのではなかろうか。少なくとも僕はそうだ。だから、診察が薬の処方だけで終わろうとすると、思わず「先生、注射は無いんですか？」と口にしてしまう。医療の現場ではなるべく注射をしないという傾向にあることは分かっているのだけれども…。注射信者としては、注射をした方が回復が早いという思い込みを棄てることができず、ほとんど信仰のようになっているのだ。子どもの頃の注射で劇的に回復したという記憶がそうさせるのだろう。そうは申せ、そろそろ注射信仰を止めないと手に負えない高齢患者になってしまいそう。主治医の先生の処方通りに病気と向き合うことが一番。「あれ、注射は無いのか」などと思っても決して口にしてはいけないと肝に銘じている。</p>



<p>　そうは言っても、インフルエンザの予防接種となると話は別である。毎年ワクチン注射を受けている。感染して公務に穴をあけるということを避けたいとの思いからである。もっとも予防接種を受けたとしても万能と言う訳じゃなく、何年間に一度は感染してしまい、一週間程度の自宅隔離を余儀なくされる。この稿を書くにあたり、一番新しいインフルエンザの感染はいつだったのかと気になり、自分のブログを遡ってみた。意外にも前のことで驚いたが、2014年の2月に一週間の隔離休暇をもらっていた。ブログの文章を読み直してみると、同居している娘との食事も避けるという徹底した家庭内隔離をしていたうえに、熱が下がり体調が回復してからも更に2日間の自宅待機をしていた。誰かに感染させる可能性があるのだから当然である。おそらく電話とメールで仕事をしていたのだろうなあ。いろんな人に迷惑を掛けたに違いないと思うと今になっても反省させられる。それでもその後の6年半は一度も感染していないということだ。予防接種のお陰であろう。僕自身は今年の接種を10月の初めにしたが、65歳以上の方には無料接種券が配付されているので多くの方に接種してほしいと願っている。もちろん子どもから大人まで多くの方にも受けてほしい。新型コロナとインフルエンザの同時流行だけは避けたいと思うからである。</p>



<p>　ところで注射信者としては昔と最近の注射事情を比較して不思議に思うことが何点かある。思いつくままに列挙してみたい。</p>



<p>　まず、小学生の頃の集団接種において一本の注射で何人もの生徒が注射されていた記憶があるが、よくぞ無事でいたものだと思うこと。そのうえ昔の注射はとても痛かった記憶があるが今はそうでもないということ。昔は注射の後でよく揉むように言われたが、今は逆に揉まないように言われること。昔は注射をした日には入浴しないように注意されたが今は違うこと。などなどであるが、すべては医療の進歩の賜物ということだろう。その延長線上にあるのが冒頭に書いた注射をしない診療ということになるのだろうなあ。やっぱり注射信仰を棄てる時ということか。</p>



<p>　先に紹介したブログの中に子どもの頃の記憶を書いている部分があり読んでみて懐かしい思いにさせられたので披露してみたい。</p>



<p>　「目を閉じていると時計の秒針が刻む音が耳につく。急に子どもの頃に風邪で学校を休んで家で寝ていた時のことを思いだす。誰もいない家の中で一人で布団に寝ながら時計の音だけが耳に響いてきて寂しかった記憶だ。時計の音は容赦が無い。確実に時の経過を刻む。自分だけが無為に過ごしているようで不安にさせる。早く学校に行きたいと泣きそうになりながら思っていた記憶が甦ってきた。」というもの。改めて童心を思い出せられているが、この時も近くの医院で痛い注射をしてもらって家で寝ていたのだろうなあ。</p>
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		<item>
		<title>いつも農作業を手伝ってきた？</title>
		<link>https://morimasashi.jp/2020/11/05/%e3%81%84%e3%81%a4%e3%82%82%e8%be%b2%e4%bd%9c%e6%a5%ad%e3%82%92%e6%89%8b%e4%bc%9d%e3%81%a3%e3%81%a6%e3%81%8d%e3%81%9f%ef%bc%9f/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[森雅志]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 04 Nov 2020 23:30:27 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[エッセイ]]></category>
		<category><![CDATA[家族・暮らし]]></category>
		<category><![CDATA[思い出]]></category>
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					<description><![CDATA[　過日、コンビニに行こうと軽四で道路を走っていたところ、道路上に大量の梨が転がっていて二人の人が慌てて拾っているところに出くわした。この道路は僕が中学生の頃に農道として整備された、直線で走りやすい道であり、梨の最盛期には [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p>　過日、コンビニに行こうと軽四で道路を走っていたところ、道路上に大量の梨が転がっていて二人の人が慌てて拾っているところに出くわした。この道路は僕が中学生の頃に農道として整備された、直線で走りやすい道であり、梨の最盛期には収穫した梨を運ぶトラクターや軽トラと一般の乗用車などで混雑することが多い。いずれにしても、僕が状況に気づいたときには対向車線には既に5、6台の車が走行できずに停まっていた。僕は車を左側に停めて、転がった梨を拾おうと走って行った。周囲に迷惑を掛けてしまって申し訳ないといった風情で黙々と梨を拾っているのは近所の人であった。時々、僕の梨畑での作業にアドバイスをしてくれる80代の男性と彼の息子の妻の二人である。失敗したという気持ちで緊張しながら作業をしている二人の心を少しでも和らげようと、「僕も若い時に満杯の箱をひっくり返したことがありました…。」と言いつつ作業を急いだ。気が付くと、若い男女3名が一緒になって作業をしてくれていた。車から満杯の梨の箱が落ちたのだから、転がっている梨はほとんどが割れて果汁が浸み出しているので手がべたついてしまうのに、嫌がらずに手伝ってくれる若者の姿にほっとさせられた。彼ら以外の車から新たに手伝おうとする人は現れなかったけれど、クラクションを鳴らす人はいなくて、静かに作業が終わるのを待ってくれていた。まだまだ助け合いの心が生きていることに触れて嬉しくなった。作業が進み1車線程度の幅で通行できるようになるとお互いに譲り合って交互に通行している様子もまた嬉しく感じた。みんな忍びざるの心を持っているということだ。</p>



<p>　ちなみに、僕が若い頃に梨の箱をひっくり返したのは自宅の敷地内であったものの、両親が丹精込めて栽培してきた成果品を台無しにしてしまったという後ろめたさで小さくなっていた。そんな僕に対して父が「まあ、大なり小なりみんなやってることだ。」と慰めてくれた。忘れられない記憶である。</p>



<p>　僕は、毎日忙しく農作業に励む両親のために一生懸命に手伝いをするという健気な少年ではなかった。それでもたまに手伝いに駆り出されたものだ。そんな記憶を辿ってみると、よくぞ無事だったなと思わされる失敗ばかりが浮かんでくる。思い出せる失敗話の幾つかを綴ってみたいと思う。</p>



<p>　小学生の頃に茶畑で新茶葉をいっぱいに入れた畚（藁で編んだ籠、当時わが家ではドーハと言っていた）をリヤカーで運んでいてひっくり返してしまったこと。</p>



<p>　中学生の時に耕運機でリヤカー状のものを牽引する装置を運転していて側溝に落ちる寸前という危険な瞬間があったこと。</p>



<p>　乗用の防除機が無かった頃の農薬散布作業は固定した動力噴霧器から長いホースを伸ばして行っていたのだが、梨の樹に噴霧する父のやりやすいようにホースを引いたり押したりすべきなのに要領が悪くて長いホースを絡ませたうえに足を取られて思いっきりコンクリート柱に頭をぶつけてしまったこと。</p>



<p>　脱穀機などを動かすための農業用三相交流電源をいじっていて感電したこと。</p>



<p>　この歳になっても子どもの頃の失敗を忘れることはできない。その殆どは親にも友達にも言わず、そっと胸の奥に隠してきたものだ。不思議なことに最近になってそんな小さな秘密を告白したくなり、この稿を書いた次第。父が入院し母が施設でお世話になっている今、両親の若い頃からの苦労をしのびつつ、残された梨畑を何とか維持していこうとする思いがそうさせたのかもしれない。ほとんど梨栽培の知識がないけれど門前の小僧の記憶に頼りながら、かつ近所の人に助けられながらなんとか今年の収穫を終えることができた。失敗談を披露することで心をリセットして秋の剪定作業から再挑戦だ。</p>



<p>　さて、来年はどんな梨が取れることやら？楽しみながら頑張りたいと思っている。</p>
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		<item>
		<title>雑学 二宮尊徳</title>
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		<dc:creator><![CDATA[森雅志]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 04 Jul 2020 23:30:43 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[エッセイ]]></category>
		<category><![CDATA[思い出]]></category>
		<category><![CDATA[政治・政策]]></category>
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					<description><![CDATA[　小学４年生の時に、アメリカの大統領であったジョン・F・ケネディが日本人の中で一番関心がある人物として上杉鷹山の名前を挙げたことを知って驚いた。当時の僕は、不明にも上杉鷹山という人の存在を知らなかったからである。何日か図 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p>　小学４年生の時に、アメリカの大統領であったジョン・F・ケネディが日本人の中で一番関心がある人物として上杉鷹山の名前を挙げたことを知って驚いた。当時の僕は、不明にも上杉鷹山という人の存在を知らなかったからである。何日か図書館に籠もり、上杉鷹山に関する書籍をむさぼり読んだ記憶がある。</p>



<p>　バブル崩壊の後に幾つもの大企業が破綻した時代があったが、そういう事態に接して日本社会が抱える制度疲労や悪弊がいかに深刻であるかということを思わされた。そして上杉鷹山に代表される江戸時代の財政再建の指導者たちに興味を持ち、備中松山藩の再建に取り組んだ山田方谷や、上杉鷹山の師である細井平洲などの伝記ものを乱読した。</p>



<p>　その頃に二宮尊徳についても興味を持てば良かったのだろうが、漠然としたイメージだけで二宮尊徳を理解したつもりでいて、改めて調べてみるということをしなかった。ところが最近になって、二宮尊徳の功績を広めるために「二宮金次郎」という映画が製作されていて、全国の公民館などで上映をする運動をしているグループの存在を知り興味を持った。かつては小学校の校門の近くに必ずと言っていいほどに「二宮金次郎」の銅像が設置されていた。薪を背負って読書をしながら歩く少年の姿は、家の手伝いをしながらも学びを怠らない理想の姿として日本中に広められていた。ちなみに現在の富山市内の「二宮金次郎」像の設置状況は、小学校19校、中学校２校に設置されている。</p>



<p>　この像のお陰で少年二宮金次郎は多くの人に知られているのだけれども、大人になっての功績を知る人はあまり多くないと思う。本稿では大人の二宮尊徳があげた功績について簡単に述べてみたい。</p>



<p>　彼は現在の神奈川県小田原市内の村で比較的裕福な農家の長男として生まれた。やがて川の氾濫により一家が所有していた農地の大半が流されるという悲劇に見舞われてしまう。そのうえ両親が失意の中で他界。しかし彼は、荒れた空き地で菜種を育てて収穫したことで小さな努力を積み重ねることが大切だという「積小為大」の考えを体得する。この考えのもと努力を重ね、やがて実家の再興に成功する。その成功を目にした小田原藩は家老服部家の財政再建を依頼する。それを成功させたことにより、さまざまな大名・旗本などから財政再建の依頼が続くこととなっていく。</p>



<p>　その頃は大飢饉が続き農村が疲弊しきっていた時代であったが、彼が再建の手ほどきをした村は600カ所以上にのぼったと言われている。</p>



<p>　多くの藩や旗本領の侍たちができなかったことを何故彼が成し遂げられたのか。それは勤勉さの勧めだけではなく、彼の優れた経済的な見通しと実行力があったからであろう。</p>



<p>　例えば、飢饉の際には年貢の取り立て率を下げるということをやっている。今で言う納税猶予や減免をして離農や離村者を出さないようにしたのである。藩主をはじめとする侍たちが窮乏を我慢することで年貢の総額を抑え、農民の意欲を高め人口増につなげるという発想だ。愛民という封建道徳の論理である。</p>



<p>　また、当時の侍階級は資本を回転して儲ける商人を蔑んでいた。蔑みながらもその商人から借金をするというのが財政危機に陥る一つのパターンであった。そういう状況に対しての彼の功績が「五常講」という講制度である。藩の使用人や武士の生活のためにお金を貸し借りできる仕組みで、今で言う信用組合のようなものだ。資本の回転である。二宮尊徳はその時代の農家でありながら商人的な「資本の論理」を理解していたのだろうなあ。積小為大という「封建道徳の論理」と「資本の論理」を併せ持っていたのであろう。</p>



<p>　先に紹介した映画をぜひとも見てみたい。</p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>再びの『巣立ちの春』</title>
		<link>https://morimasashi.jp/2020/04/05/%e5%86%8d%e3%81%b3%e3%81%ae%e3%80%8e%e5%b7%a3%e7%ab%8b%e3%81%a1%e3%81%ae%e6%98%a5%e3%80%8f/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[森雅志]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 04 Apr 2020 23:30:21 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[エッセイ]]></category>
		<category><![CDATA[家族・暮らし]]></category>
		<category><![CDATA[思い出]]></category>
		<category><![CDATA[愛のかたち]]></category>
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					<description><![CDATA[　4月を迎え、また巣立ちの春がやってくる。この季節に、新しい生活に向けて希望を膨らませている若者の姿を見るのが大好きだ。春の光景だ。春はいいなあという思いを抱きながら今年も新年度を迎えることとなる。 　新年度に入れば僕の [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p>　4月を迎え、また巣立ちの春がやってくる。この季節に、新しい生活に向けて希望を膨らませている若者の姿を見るのが大好きだ。春の光景だ。春はいいなあという思いを抱きながら今年も新年度を迎えることとなる。</p>



<p>　新年度に入れば僕の残りの任期は12カ月。広報にエッセイを書く機会もあと12回しかない。そう思うと、懐かしさに動かされ過去のエッセイを読み直してみた。そして、自分の書いた原稿でありながら昔は今よりチョットだけ良い文章を書いていたものだと驚かされてしまった。横着ではあるけれど、過去のエッセイを再掲させていただくことをお許し願いたい。決して手を抜こうとしている訳ではなく、今の僕の心境そのままのエッセイなのでもう一度読んで欲しいという思いからです。何卒、ご理解願います。</p>



<p style="text-align:center">『巣立ちの春』</p>



<p>　僕が執務室でコーヒーを飲むときに決まって使う陶器のコーヒーカップがある。もう長い間このカップを使ってきているので内側の部分や持ち手の辺りが黒ずんでしまっている。実は僕の持ち物や身の回りの品の中でこのカップの愛用期間が一番長い。昭和46年の4月に買ったものなのだから、もう36年間も使っているということだ。良くぞ毀れずに使用に耐えてきたものだ。褒めてやりたいくらいである。</p>



<p>　そのうえに僕はこのカップを購入した日も場所もチャンと覚えているのだ。4月3日、世田谷区の小田急線・経堂駅前の小さな雑貨屋で買ったのである。なぜそんな昔のことなのに覚えているのか。それはその日が大学に入学し東京で暮らし始めた最初の日だったからである。</p>



<p>　東京の大学に進学することを決めたものの、東京は不案内のうえ親戚もないことから父の戦友を頼ってまかない付きの下宿を探してもらったのであった。それが経堂駅から徒歩15分という下宿屋だったのである。いよいよ4月に入り、東京での一人暮らしを始めるべく上京し、四畳半の生活に必要な品物を調達した中にそのコーヒーカップが含まれていたという次第である。</p>



<p>　僕には姉がいるが彼女は高校を出て富山で勤めていたので、僕が家を出て東京で一人暮らしを始めることは家族にとって大事件であったに違いない。そのせいもあって初めて下宿に入るというその日は父親が一緒に上京してくれた。父は下宿のおばさんに挨拶をし、僕の部屋を確認し、部屋を探してくれた戦友を訪ねたうえでその日のうちに帰って行ったと記憶している。あまり多くを語らず、ただ「頑張れよ」と言って上野駅へ向かった父であったが、その胸中を去来したものは大きかったに違いない。息子の巣立ちに対する喜びと期待、親としてのチョットした満足感、そしてかすかな不安と寂しさなどであったのだろうか。その時はそこから始まる新生活にばかり気持ちが向かっていてそんな親の気持ちに気付かない僕であったが、この歳になるとその時の父の思いが良く分かる。親とは本当に有り難いものだと思う。その親の思いや東京での多くの記憶を手元のコーヒーカップが時々思い出させてくれるのだ。その意味では大切な宝物なのである。　</p>



<p>　そしてまた4月がめぐって来た。巣立ちの季節である。あの日の僕のようにあふれる希望を胸いっぱいに抱いて新生活に入る若者が沢山いる。彼らの青春の日々が充実したものであることを願おう。一方、あの日の僕の父のように、成長していく子どもを送り出しながら期待と同時に寂しさを感じている親も多いことだろう。その親御さんたちにもエールを送りたい。しかし何よりも、巣立っていく若者たちが温かく見守っている親の思いをきちんと受け止めてくれることを願わずにいられない。親とは本当に有り難いものだ。</p>



<p>（No.23 平成19年4月5日号掲載）</p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>ラオスの七段飾り</title>
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		<dc:creator><![CDATA[森雅志]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 04 Mar 2020 23:30:38 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[エッセイ]]></category>
		<category><![CDATA[家族・暮らし]]></category>
		<category><![CDATA[思い出]]></category>
		<category><![CDATA[日本の文化]]></category>
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					<description><![CDATA[　毎年のことだが、1月の末から3月4日まで、わが家の玄関にはお雛様の描かれた小さな衝立と男雛・女雛の木目込み人形が飾られる。そして、毎年3月4日の早朝にこのセットを片付けて、満開の桜の絵を飾る。季節の変わり目のわが家の風 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p>　毎年のことだが、1月の末から3月4日まで、わが家の玄関にはお雛様の描かれた小さな衝立と男雛・女雛の木目込み人形が飾られる。そして、毎年3月4日の早朝にこのセットを片付けて、満開の桜の絵を飾る。季節の変わり目のわが家の風物詩である。</p>



<p>　さて、お雛様の衝立と木目込み人形、この2つのお雛様にはちょっとした違いがある。それは男雛と女雛の並ぶ位置が全く逆であるということだ。衝立の方は向かって右側に男雛が描かれているのに対して、人形の方は向かって左側に男雛が置かれているのだ。よく言われる関東雛と京雛の違いというものだ。わが家の場合の衝立の方の配列を京雛と言い、人形の方を関東雛と言うらしい。何故こういう違いが生じたのだろうか？</p>



<p>　京雛の、向かって右側に男雛、つまりお殿様が座るのは御所における玉座の位置に基づいているらしい。わが国古来の、「左上座」に倣えば、お殿様が一番偉いのだから向かって右側に座るのが慣わしということになる。</p>



<p>　では、何故に関東雛ではお殿様が向かって左側に座っているのだろうか。それには大正天皇のご即位が関係しているらしい。明治時代、なんでも西洋に倣うという風潮が強くなった時期がある。その結果、並び方においても国際儀礼である「右が上位」という考え方が取り入れられることとなった。「左上座」から「右上座」への転換ということだ。そして、大正天皇ご即位の際に、天皇陛下が皇后陛下の右に立たれたことから広くこの「右上座」という風習が広まっていったのだった。お雛様の配列においても、このご即位時のスタイルが定番となっていったのだ。その結果、関東雛と京雛という違いが生まれ、最近は関東雛が主流とのこと。そんな背景など知らずに、わが家では2つの並び方が同居しているということだ。</p>



<p>　ちなみに、僕には僕なりの並び方のルールがある。並んで立つ場合には無頓着で何も気にしてないけれど、女性であれ子どもであれ、守るべき対象と並んで歩く場合には絶えず僕が車道側を歩き、相手が歩道側を歩くということにしている。当然至極のことである。 　</p>



<p>　さて、わが家も娘たちが小さかった頃は座敷に七段飾りのお雛様セットを飾った。このセッティングはひどく寒い時期に底冷えのする座敷で僕が一人で担当する難業であった。そのうえ3月4日中には何があろうと片付けなければならないという第二の難業までもがあった。やがてわが家では、長女が中学に進級した頃に、難業を見かねた娘たちが提案してくれて、現在の衝立と木目込み人形を飾るやり方に変わったのである。爾来、七段飾りセットはわが家の物置に忘れられたまま仕舞われていた。ところが、数年前にあるラオス人の若者と知り合ったことで七段飾りセットの運命（？）は大きく動き出すこととなった。彼は母国と日本で事業をしている実業家で、ラオス政権中枢に繋がる人脈を持つ人物であった。例えば、ラオスの文部科学大臣が彼の叔父であり、ある日、その大臣が日本の伝統的なお雛様を両国友好の証しとして庁舎に飾りたいという希望を持っていることを告げられた。その時、僕が急にわが家の物置で忘れられているセットを思い出し、提供しても良いと提案したところ、一気に話が進展し、ラオス政府の文部科学省庁舎にわが家の七段飾りが飾られることとなったのだった。僕がかなり苦労して何とか梱包したお雛様セットはコンテナに入れられ、とっくにビエンチャンに届いていると聞いていた。組み立て方や並べ方についても詳しい写真付きの資料を同封しておいたのだけれども、未だに展示された写真が届かない。果たしてどうしているのだろうか、ラオスの七段飾り。かの地で大事にされているのなら本望なのだが。 </p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>言の葉選び</title>
		<link>https://morimasashi.jp/2020/01/05/%e8%a8%80%e3%81%ae%e8%91%89%e9%81%b8%e3%81%b3/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[森雅志]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 05 Jan 2020 04:00:08 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[エッセイ]]></category>
		<category><![CDATA[思い出]]></category>
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					<description><![CDATA[　OECDによる国際学習到達度調査で日本の15歳の読解力が落ちていることが分かった。若い世代は小説を読まないうえに、新聞や雑誌のように内容を精査しながら長文を読むことさえ少なくなってきているそうだから、読解力が落ちるのも [&#8230;]]]></description>
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<p>　OECDによる国際学習到達度調査で日本の15歳の読解力が落ちていることが分かった。若い世代は小説を読まないうえに、新聞や雑誌のように内容を精査しながら長文を読むことさえ少なくなってきているそうだから、読解力が落ちるのも当然であろう。</p>



<p>　そのうえ、インターネット上のチャットやLINEで短文をポンポンと送り合うことに慣れてしまって、助詞や助動詞、接続詞の使い方さえもおかしくなっているという指摘もある。最近僕もそんなことを思わされる場面にしばしば遭遇する。さらには、まったく意味の分からない省略語には面食らってしまう。言葉は時代にあわせて変化するものだとは言え、極端すぎてついていけない。</p>



<p>　僕は日本語が良くできた言語だと思っている。例えば、「僕は森です」と「僕が森です」とでは意味が違う。間に入っているひらがな１字が変わるだけで意味がさらに変化する。「僕も森です」、「僕の森です」、「僕と森です」という具合だ。さらに言えば、似たような文章でも単語の順番が変わると微妙にニュアンスが変化する。「さっきから雨が降っていた」と「雨がさっきから降っていた」とは微妙に違う。「雨はさっきから降っていた」となると「さっきから」が強調される。僕はこういう微妙なニュアンスの違いや語感を大切にしたいと思っている。そのためには読書が欠かせない。特に小説や詩歌を読むことが必要だ。これからも、若者を中心にして日本語が変わっていくとしても、僕は自分の語感にこだわって生きていきたいと思う。</p>



<p>　話は変わるが、新幹線のホームで流れるアナウンスに違和感を禁じ得ない。「車内ではおタバコをお吸いになられません」というものだ。助動詞の「る・らる」の使い方の問題だ。この場合は可能を表す「る・らる」なのだから、僕の語感では「車内ではおタバコをお吸いになれません」となる。ただし「先生は車内ではタバコをお吸いになられません」は正しい。尊敬を表す「る・らる」だからである。ことほど左様に日本語は複雑で面白い言語なのである。だからこそ言葉を選びながら使っていきたいと思う。</p>



<p>　言葉選びと言えば、キャッチコピーやキーワードを考えるのも楽しい作業だ。僕が今まで使ってきたキーワードの幾つかを紹介してみたい。初めての県議選では「あなたの体温を県政に」という言葉を使った。初めての市長選の際は「とやま、新時代！」というものだった。前回の選挙では「暖かい手と手をつなぐ」というワードを使い、僕らしくないとも言われた。どれも呻吟しながら自分で考えてきた。楽しい思い出だ。</p>



<p>　一方、新年の執務始めの挨拶の際にも毎年キーワードを披露してきた。就任して最初の正月だった平成15年は「シンク・ビッグ」。平成17年は「他とは違っているか、新しい刺激に満ちているか、時の試練に耐えうるか」というものだったが、ある所で見つけた言葉を使わせてもらったもの。以後も「出力全開」、「原点回帰」、「変化の実現」、「ネクスト・ステージ」、「再点検の年」、「質を高める」、「イマジネーション」といった具合に使ってきた。どれも年初にあたっての自分自身の気持ちや意気込みを、言葉を選びながら表そうとしたものである。ところが長く続けてきたこともあって、ここ数年のキーワードは意味の分かりにくいものだったと今になって反省している。例えば、「思考は原点 姿勢は頂点」とか「共進化」とか「音叉の共鳴と共鳴の連鎖」とかといった具合だ。最後のものに至ってはかなりの読解力の持ち主でも説明がないと分からないと思う。反省しきり。</p>



<p><strong>　</strong>今、本稿を書きながら令和２年のキーワードを思案している次第。はたしてどういう言葉になりますやら。</p>
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		<title>お洒落な？体験談</title>
		<link>https://morimasashi.jp/2019/11/05/%e3%81%8a%e6%b4%92%e8%90%bd%e3%81%aa%ef%bc%9f%e4%bd%93%e9%a8%93%e8%ab%87/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[森雅志]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 04 Nov 2019 16:00:50 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[エッセイ]]></category>
		<category><![CDATA[思い出]]></category>
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					<description><![CDATA[　ちょうど10年前のことになるが、職員の有志とポートランドやサンフランシスコに視察旅行に行ったことがある。その時の面白いエピソードを披露したいと思う。 　僕らはポートランド空港で出発を待ちながら飲食をしていた。やがてウエ [&#8230;]]]></description>
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<p>　ちょうど10年前のことになるが、職員の有志とポートランドやサンフランシスコに視察旅行に行ったことがある。その時の面白いエピソードを披露したいと思う。</p>



<p>　僕らはポートランド空港で出発を待ちながら飲食をしていた。やがてウエーターが笑顔で近づいてきて「君らは素晴らしい友達がいるね。君らの飲食代は先ほど店を出た人が済ませていったよ。ラッキーだねぇ。」と告げてくれた。僕らは何が起きたのか分からずにいたのだが、確認してみると、見ず知らずの白人の男性が僕らに御馳走してくれたということであった。それも僕らには何も言わないで黙って支払いを済ませてくれたのである。確かにラッキーではあるが釈然としないでいると、となりにいた白人女性が「彼は日本語が凄く分かる人であなた達の会話を聞いていて思うところがあったのではないのか？」と推測してくれた。</p>



<p>　僕らはその時、ポートランドの交通政策や街づくりの素晴らしさを絶賛していた。また職員の対応を褒めちぎっていたのだった。（もちろん富山弁で。）おそらく彼女の推理どおり、富山弁の会話を理解できるほどに日本語が上手な白人男性が偶然にとなりのテーブルにいて、僕らの会話の内容を嬉しく受け止め、黙って御馳走してくれたということなのだろう。</p>



<p>　もしも僕が彼の立場だったら、一緒に会話に加わったうえでこれ見よがしに支払いをしたに違いない。それにひきかえ、黙って支払うという大人ぶりのスタイルには驚かされてしまった。こういうのをお洒落とかダンディズムとかと言うのだろうなあ。真似ができないけれど、いつかどこかで富山市の取り組みを評価してくれる外国人の会話を耳にしたならばお返しをしたいものだと思っている。</p>



<p>　次は数カ月前の出来事。あるお店で知人とお酒を楽しんでいると、やがて若いカップルが来て店主夫婦と談笑を始めた。聞いてみると、男性の方がかつてこの店でアルバイトをしていたとのこと。その彼が同行の女性にプロポーズをしてＯＫを貰ったので、かつてお世話になった店主夫婦に報告に来たのだということだ。店主夫婦だけじゃなく、お店の客全員が驚き、そして温かい目で二人を見つめ、おめでとうと言って祝福したのだった。僕はやりすぎかなと思いつつシャンパン一本をオーダーし、みんなで乾杯をして若い２人を祝福しようと提案した。そして厨房にいたスタッフも含めた全員で二人の未来が輝くように願ってグラスを空けたのだった。２人はすごく喜んでくれ、僕らはみんな幸せな気分になることができた。僕もそれなりにシャンパンをお洒落に使える大人になれたのかな？と思った次第。</p>



<p>　最後は数日前のエピソード。高岡にある馴染みのお蕎麦屋さんでの出来事である。近くにあるショッピングセンターが増築オープンしたため、周辺の道路が大渋滞であった。店内に関西風の言葉で話す家族連れのお客さんがいた。そのうちに食事が終わり、精算をしながら店員と話す男性の口から、京都に向かうため北陸自動車道高岡砺波スマートインターに行きたいという声が聞こえた。僕はこっそり他の店員を呼んで、渋滞を避けるためには能越自動車道の高岡インターに向かう方が良いと教えてあげたら良いのではと告げた。すぐに気付いた彼女はその旨を伝えるため京都からのお客と話し始めた。やがて彼らが店を出る際に「親切な良い店だね。」と話しているのがかすかに聞こえた。僕と店員とは目を合わせながら小さく笑っていた。以前の僕なら京都へ向かうお客に直接伝えていたに違いないと思うが、今回少しはお洒落に対応できたのかな？ポートランドの彼には遠く及ばないけれど…。</p>
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		<title>新しい朝がまた来た…♪</title>
		<link>https://morimasashi.jp/2019/08/05/%e6%96%b0%e3%81%97%e3%81%84%e6%9c%9d%e3%81%8c%e3%81%be%e3%81%9f%e6%9d%a5%e3%81%9f%e2%99%aa/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[森雅志]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 04 Aug 2019 16:00:45 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[エッセイ]]></category>
		<category><![CDATA[思い出]]></category>
		<category><![CDATA[歳時記・世相]]></category>
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					<description><![CDATA[　8月5日に環水公園の親水広場で2019年度夏期巡回ラジオ体操・みんなの体操会が開催される。夏休み期間中に指導者やピアノの演奏者などが全国を巡回し、それぞれの地域の住民が会場で一斉にラジオ体操する様がNHKのラジオ放送で [&#8230;]]]></description>
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<p> 　8月5日に環水公園の親水広場で2019年度夏期巡回ラジオ体操・みんなの体操会が開催される。夏休み期間中に指導者やピアノの演奏者などが全国を巡回し、それぞれの地域の住民が会場で一斉にラジオ体操する様がNHKのラジオ放送で生中継されるあの企画である。10年以上前に早朝から参加した記憶があるので富山市で開催されるのは久しぶりということになる。できれば当日に多くの人に参加してほしいものだ。そんな思いもあって、この稿はラジオ体操について述べてみたいと思う。(10年以上前に「新しい朝が来た…♪」というラジオ体操の歌の歌いだしを引用したタイトルでエッセイを書いていたので、今回のタイトルを「新しい朝がまた来た…♪」として遊んでみました。)</p>



<p>　調べてみるとラジオ体操の起源は大正12年に逓信省の課長がアメリカ出張の際に知ったアメリカ版ラジオ体操を紹介したことに遡る。それを受けて文部省が昭和3年に「国民保健体操」の名前で発表。その後、天皇の御大典記念事業の一環として東京で放送が開始された。全国放送として定着したのは昭和9年以降であった。その後、終戦でいったんは中止となったものの、昭和26年に現在のラジオ体操第一が制定され、翌年に第二が制定された。そして昭和28年に夏期巡回ラジオ体操会が開始されている。</p>



<p>　ちなみに現在のラジオ体操の歌は昭和31年に藤浦洸作詞、藤山一郎作曲で作られている。子供の頃になじんだ歌は今も忘れていないし、そもそも何故か僕はこの歌が大好きなのだ。同じように「若い力」とか「富山県民の歌」とかも大好きなので死ぬまで忘れないのだろうなあ。</p>



<p><strong>　</strong>閑話休題</p>



<p>　そして、全国の町内会や自治会で行われているラジオ体操の会は昭和5年に神田万世橋署の面高という巡査が「早起きラジオ体操会」を実施したことが起源とされている。僕は子供の頃から早起きだったのでこの行事が大好きだった。体操の後に列に並んでハンコを押してもらい得意げに帰宅していたものだ。</p>



<p>　ところでラジオ体操第三というものがあったことをラジオ体操の歴史を調べて初めて知った。動きが複雑で躍動的すぎたためラジオの音声でその動きを伝えることが難しく普及しなかったらしい。その後、平成11年には「みんなの体操」という座位の体操が作られている。不明にもこのことは良く知らなかったのだが、おそらくテレビ体操の時間に放送されている椅子に座って行う体操に違いない。</p>



<p>　さて、山行の楽しみの一つに朝のラジオ体操がある。早朝の山並みの景色を楽しみ、爽やかな空気を吸い込もうと散策している人たちがラジオ体操の開始を告げる音楽が流れてくると自然に並びはじめ、ラジオから流れる名調子にあわせて見知らぬ者同士で一斉に体操を始める。日頃あまり体操をしない人も含めて、老若男女を問わず、心が通じているかのように真面目に体操をする様子は感動的でさえある。一緒にやってみるとうろ覚えだった第二体操までやれるのが不思議である。</p>



<p>　ラジオ体操は日本人のほとんどが共有している一つの文化だと言っても良いと思う。日本人が世代を超えて共有している記憶なのである。僕は見知らぬ同士がラジオを前にして共有できるこの記憶を大切にすべきだと思う。</p>



<p>　この話をある人にしたら、富山駅の中で進行中の路面電車の南北接続工事の現場でも始業前にラジオ体操が行われていると教えてもらった。恐るべし!ラジオ体操。</p>
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