「少年よ大志を抱け」で思うこと
タイトルの言葉は、あのクラーク博士の言葉である。クラーク博士は札幌農学校の初代教頭として日本に招かれ、アメリカ式の教育プログラムを導入し、非常に高水準な教育を実現したと言われている。赴任期間を終えた彼は翌年に日本を離れることになり、農学校を去るときに学生たちに向けて馬上からかけた言葉が「ボーイズビーアンビシャス」であった。それが「少年よ大志を抱け」と翻訳され、若者たちへの激励の言葉となっていったとされている。
ところが、この時の挨拶については正確な記録がなく、「お金や欲望、名声のためではなく、人としてなすべきことのために大志を持ちなさい」というものであったという説もある。しかし、馬上でこんなに長い挨拶をするのは不自然だとして、この説は信憑性が低いとするのが大勢である。また、教え子だった人が「みんな私のように野心的でありなさい」と言ったと紹介している記録もある。さらには、別れ際に「まあ、お前ら頑張れよ!」という程度の軽い言葉だったという推察もある。
人の口から出た言葉というものはこの例に見られるように独り歩きしがちである。発言者の知らないところで思いもしない意味付けがされることもある。僕自身も真意とは全然違う意味の発言と受け取られて閉口したことがある。会話音として発した言葉が活字化されると微妙にニュアンスが変わったり、同音異義語として受け取られることもあるのだ。今は、勝手に録音されて加工されることさえあるのだから、もうお手上げ状態である。まあ、自らの真意は一つしかないのだから、周囲の騒音など無視すれば良いと思っている。
一方では、ある言葉の意味について自分の理解とは全く違う解釈があることを知り驚かされることもある。例えば藪医者という言葉である。一般には、適切な診療能力を持たない医師を指す蔑称であろう。ところが、藪医者ではなく「養父医者」と書き、名医を指す言葉なのだとする解釈があるらしい。但馬国の養父にいたという名医が語源であり、その人の名声を悪用して「養父医者」の弟子を語るものが続出して、「養父医者」の評判が悪くなり「藪医者」に変化したのではないかとする説である。兵庫県の養父市では、へき地医療をする若手医師を対象にした「やぶ医者大賞」という表彰をしているそうだ。面白い。
また、いろいろな解釈があって、よく論争になるのがダーウィンの次の言葉である。「強いものが生き残るのではなく、賢いものが生き残るのでもない、唯一生き残るものは変化できるものである」という言葉。実に奥が深い。現状に満足することなく絶えず自らを変化させることが大切だという戒めの言葉のようであり、生き残るためには変化のための努力を怠るなと言う意味にもとれる。ところが最近よく言われる解釈は次のようである。「生物の同じ種の中でも個体によって形質にばらつきがある。例えば長身のものが有利な環境に暮らすと長身の個体が長生きをして子孫をたくさん残す、結果として環境により適応した形質を持つ個体が増えていくことになる」という説だ。つまり、ダーウィンの進化論は、ある集団にどんな変化が起こったかということに視座があるのであり、個体の話ではないということだ。言い換えれば、環境に適応した個体がより良い子孫を残し、強い集団を形成していくということだ。集団を組織と置き換えて考えてみよう。環境や時代に適応して変化できる個体をたくさん持つ組織が強くなるということだろう。年老いた僕にはそんな適応能力はない。適応能力を持つ組織を牽引できる、そして組織力を最大化できる新しいリーダーの出現こそが必要なのだ。それが組織を変化させることに繋がるからである。
いずれにしても言葉使いは難しい。だからこそ面白いのだけれども。