2024年7月14日 (パリ祭じゃないか)
僕が小学校四年生の時の担任は女性教師であり、同じ町内に住んでいる人であった。夏休みに入った頃にこの先生には僕と同じ年の女の子がいることを知った。同じ学年なのに何故(?)学校に来ていないのかと母に聞いてみると、彼女は「フゾク小学校」に通っていると教えられた。僕はその時に初めて「フゾク小学校」の存在を知り、それが富山大学附属小学校であることも理解したのであった。そして僕は担任の先生に対して強い違和感を覚えたのである。何故に自分が教えている学校に信頼を置けず、ひょっとしたら我が呉羽小学校よりも水準が高いのかもしれないフゾクに通わせているのであろうか。自分の娘を地域の小学校とは違う学校に通わせながら僕の担任をしているということに子供は子供なりに大いに疑問を感じ、ついには信頼のおけない教師であると僕なりに断じたのであった。当時の通知表の学年末の評価の欄を見ると、この教師は僕について「力があるはずなのに何故かやる気を見せない」という趣旨のコメントを残している。あんたには評価してほしくない!というのが子供なりの僕の姿勢だったのであるのになあ。
いろいろな教育方針の人がいて良いし、どこの学校に通学させても良いことは子供なりに理解していた。しかし自分が教えている学校を信頼していないという姿勢でいながら教壇に立つことは教師として許されないことだと思った。娘をフゾクに行かせるのならその時点で呉羽小学校教師を辞職すべきじゃないのか。
僕はその後の人生においてかなり長くこのことにこだわってきた。ちなみに僕の弟は呉羽小学校を出て附属中学校に進学した。その選択は専業農家であった両親と弟の判断であり、何の抵抗感も感じてはこなかった。もとより、それぞれの家庭の判断でどのような進路を選び、どのような教育を受けようが自由である。それでも人は立場によっては地域性や土着性にこだわり、学校の選択においても地域の一員であるという立場を取る姿勢が求められるのではないのか。このことに僕はこだわってきた。幸いにも地域社会の支えによって地方議員の立場を得た僕は躊躇なく娘たちを地域の学校である呉羽小学校、呉羽中学校に通わせた。いろいろな考え方があることはそのとおりである。僕は僕なりの姿勢にこだわってきたということだ。幾つになっても地域の皆さんのおかげで今日があるということを忘れてはいけないのだ。仮に遠くの地で暮らしていても故郷の地や人のことを忘れてはならないのだ。お蔭で、父の残してくれた梨畑で地域の皆さんの指導を得ながら梨栽培ができている。娘たちも故郷富山の地で働かせてもらっている。有難いことだと思う。
誤解を生まないために繰り返しておきたい。僕は附属小中学校の存在についてあれこれ言っているのではない。人はその立場によっては地域性や土着性にこだわらなきゃならないのだと言いたいのである。少なくともそういう意識で僕は生きてきた。これからもそうやって生きていくのだ