森のひとりごと

2025年5月8日

2025.05.08

雑話2題

 ローマ教皇フランシスコが4月21日に亡くなり、後任者を選ぶコンクラーベが行われている。このことを予想していた訳ではないだろうが、この教皇の選出のための選挙・コンクラーベを取り上げた映画「教皇選挙」が公開されていて話題になっている。異例のヒットとなっているらしい。僕はまだこの映画を見ていないし、もちろんカトリック信者ではないのだから現実のコンクラーベとこの映画を絡めて語る資格はない。それでもコンクラーベが開始されたというニュースに触れてすぐに以前に見たある映画を思い出してニヤニヤしてしまった。その映画とは2012年公開の「ローマ法王の休日」という作品である。(ちなみに教皇と法王との違いはさほどなく同じ意味だと考えてよさそうだ。外務省がバチカンと国交樹立した時に法王と訳して広まっていたが、本来法王は仏教の言葉であることから日本のカトリック教会は教皇を正式な呼称としているようだ。)この映画の面白さは、民衆が新法王が早く選出されることを願っている中で、候補者たちは「選ばれないように」と必死に祈っているとギャップであり、運悪く新法王に選ばれてしまった主人公があまりのプレッシャーからローマの街なかに逃げ出してしまうというハチャメチャである。2012年当時は僕がイタリア語を学び始めた頃で、ヒヤリングのためだと思って何度もスマホで見ていた記憶がある。ハチャメチャなドタ騒ぎではあるものの面白かったのでおすすめです。

 4月の末に、41号線の総曲輪通りへ入る歩行者信号の角で托鉢姿で直立している人を見かけた。ちょうど赤信号で止まったのでこっそり観察していたが歩行者信号が青になっても動かずにじっと立っていた。左手には喜捨を受けるための器のようなものを掲げ静かに佇んでいたのだ。正直、驚いてしまった。富山市内でこんな托鉢僧の姿を見たことがない。いや、ないと思う。僕が知らないだけかもしれないけれど…。数人の托鉢僧がまちなかを歩いて修行する姿もほとんど見たことが無かった。あ~あ、こいう人もいるんだなあと思ったら種田山頭火を思い出してしまい、帰宅した後で「孤独の俳句 山頭火と放哉 名句100選」を取り出し久しぶりに読み直した。行乞・流転の旅を繰り返した山頭火の托鉢人生と放浪を余儀なくされた放哉の人生、そしてそこから生まれてきた自由律の名句に触れ、気持ちを凛とすることとなった。托鉢僧の姿を見せるだけで人の心に何かが届くということかもしれないなあ。頭が下がります。数日後のGW中に永平寺まで行き、親の分骨を納めてきた。この3年ほど心の何処かに引っかかっていたがすっきりとした。ここにも修行僧が沢山いた。ただ、修行僧の姿をしながらキャリーバッグを持ちアイスを食べている様子には笑ってしまった。やっぱり移動にはキャリーバッグなんだよね。爽やかな休日となった。

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