森のひとりごと

2023年11月30日

2023.11.30

       

 静かな街がいいと思う。車のクラクションの音が鳴り響くような街はうるさくてしようがない。大音声が飛び交う街も好きになれない。静謐で落ち着きのある街がいいと思う。もちろん、街には喧噪やざわめきが必要だ。しかしそれも程よいざわめきでなければならない。耳に痛いほどのざわめきはいかがなものかと思うのだ。
 子供の頃に、漁師町で育った人は声が大きいと教わった記憶がある。もちろん一概には言えないことではあるが、長じてみるとなるほどねと思わされることが何度かあった。例えば、かの国の人たちは押しなべて声が大きいと思う。かの国では同音異義語が多く、そのうえ四声という発音方式があるためはっきりと発音しないといけないという特殊事情が影響しているのかも知れないなあ。いずれにしてもかの国の人たちの集団に出会うと全員が大音量で話すためうるさくてかなわないということになってしまう。そんな経験をしたことは一度や二度ではない。大きな声で話す集団に文字どおり閉口してしまうという次第。(ここまで書いて、酒を飲まない友人からお前たち酔っぱらいは何故にそんな大声で喋るんだい?と苦言を呈されたことを思い出した。人のことは言えないか。)もっとも、漁師町の人であってもかの国の人であっても状況によっては声を潜めて話すということはあるはずだ。ひそひそ声で話すこともあるはずた。我われの日々の営みの中にはそれが求められる状況がしばしば現れるからである。大声とひそひそ声との使い分けができるからこそ、程よいざわめきが作られていくということだ。(ちなみに酔っていない僕は聞こえるか聞こえないかの音量で明解に話すことが得意だ。いや、得意だと思う。)
 ところが最近はこの大声とひそひそ声との使い分けがうまくできない人が増えているような気がしてならない。特に若い女性にそういう人が増えているような印象をぬぐえない。例えば飲食店などで隣の席から会話の内容が筒抜けになるような音量の声が聞こえてきて面食らってしまうという体験を何度もした。おいおい、そんな会話はもっと小声で話しなさいと注意したくなるくらいに、良く言えばあけすけで、悪く言えば恥知らずな会話音量なのだ。先日あるうどん屋さんで嫌でも耳に入って来た次の会話には笑いを抑えることが大変であった。「イケメンっていうほどでもないけれど大きい人を紹介してあげるって言うから期待して会いに行ったら背が高いのじゃなくて横に大きい人だったのよ。馬鹿にしないでよね。」というもの。これが聞こえてきて彼女の体型を見てみると、う~んあまり馬鹿にはされてないのじゃないかなと思えてまた可笑しくなった。彼女の場合、声が大きいだけでなくガラガラ声であることも気になった。次は新しくできた中ホールで聞こえてきた昔若かったであろう女性二人の会話。「あんたとこ、旦那さん死なれてからどれくらいたったけ?」「はや6年になっちゃよ。今ほどになりゃ、毎日伸び伸びとやっとっからこういうとこにしょっちゅう来れるがゃぜ。」「あら、なんちゅ~いいがいね。うらやましいねえ。」というもの。楽しい会話に見えて奥が深いと思わされる。女性の生命力の強さが垣間見える。
 決して盗み聞きの話をしたかった訳ではない。うまく説明できないのだけれども、最近の世の中、普通の声とひそひそ声との使い分けができないと思われる人が増えているのではないかと言いたいのである。状況に応じて会話の音量の調節をするということができない人が増えているのではないかと危惧しているのである。ひょっとするといつも大音量で音楽を聴いてきたことが影響しているのかもしれない。移動中もヘッドセットを耳に着けている人が多いことも気になる。こんなことが続いていくと僕が好きな程よいざわめきが耳に痛いざわめきになってしまうのではないかと心配しているのだ。そして、日本人が大切にしてきた話し方が無くなっていくのではと危惧しているのだ。例えば「声に微かないたわりが匂う」ような話し方や「一つ一つの言葉に注意して綿か布にくるんだように、あたりを柔らかに話す」という日本語らしい話し方が消えていっては困るのだ。それは文化の劣化に繋がりかねないと思うからだ。
 特に若いひとたちに言いたい。日本語には「鈴を転がすような声」という表現があることを知って欲しいと。仮に長身でイケメンの男性に出会ったとしても二人だけの会話を大声でやられたのでは百年の恋も冷めようというものだ。年寄りのいつもの独り言でした。

週刊ブログ関連記事

週刊ブログ

エッセイ