森のひとりごと

2020年2月11日

2020.02.11

 今日はのんびり過ごそうと思いながら、いつもより遅い時間に新聞を開いて驚いてしまった。時どき掲載される故人の遺徳を偲ぶコーナーに僕にとって忘れられない恩師の記事があったからである。この大恩ある方が昨年の秋に逝去されていたことを全く知らなかった。不明を恥じるのみである。不義理を恥じるのみである。遅ればせではあるものの線香を求めて記憶にあるご自宅に向かったものの転居されている風情でむなしく帰宅した。帰宅後、知人を介して記事の執筆者に動いてもらい、ご遺族である奥様に連絡することが叶い、何とかご自宅に足を運ぶことが出来た。高岡まで2往復した訳だが、その間、若き日の記憶を鮮明にたどることが出来た。奥様とお話しできたことが本当に良かった。
 この小島俊彰先生は、富山県における考古学会の第一人者だったので知る人も多いと思う。長く金沢美術工芸大学の教授をお勤めであった。そのうちにお目にかかり、若き日のお礼を申し上げ、これからのご指導も仰ぎたいと思いつつ無為に日を重ねて叶わなかったことを悔いるのみである。
 先生は僕が高校二年生になった春に赴任され、日本史の授業を受けることとなった。若くて溌剌とした、まるで青春映画に出てくるような、兄貴然とした先生であった。この頃の僕は、不品行や不良という言葉を超える問題生であった。授業をさぼってはジャズ喫茶に深夜まで入りびたる放蕩高校生だったのだ。もう時効だとは思うものの、今の立場を離れた後じゃないと具体のエピソードを話すことに危険を感じるくらいである。5歳年下の弟が同じ高校に入学した際に、担任から「君は本当にあの森の弟なのか?」と訝しげに言われ、「兄ちゃんは何をしでかしたのか?」と親を問い詰めることがあったらしい。わが家の伝説である。僕は父兄召喚というペナルティーを受けたうえ、ほとんど退学か放校かという瀬戸際の状況であった。
 小島先生はそんな僕に対してしきりに声をかけていただき、「どうせ授業をさぼるのなら、俺とテニスをしよう」と誘われ授業中なのに二人でテニスをしたり、神通川の河原で寝そべりながら歴史談義をしたりという時間を持つことが出来た。先生はクラス担任を持っていなかったから僕を指導してくれる時間があったのかも知れないけれど、おそらく職員会議で見放されそうになっていたであろう僕を、親しく指導していただいたことは先生の立場を悪くしていたのではなかろうかと、(この歳になってみると)思う。先生はそれでも僕を見放さずにいつも声をかけてくれたのだった。 

 先生はやがて、休日や夏休みに僕を遺跡の発掘現場に誘い出してくれた。大人の人たちや大学生に交じって黙々と汗をかいて働くことで、僕は高校生らしい生気あふれる時間を持つことが出来た。放校寸前であった僕は首の皮1枚のところで学ぶことの楽しさに触れることが出来たのである。その後もジャズ喫茶通いは続いたものの、僕の読書量は飛躍的に増え、歴史や哲学や詩歌や音楽などへの興味を膨らませることとなった。僕の手あたり次第とも言うべき読書スタイルはこの時に始まったと思う。したがって、僕の人間力形成の基礎は若き日の小島先生のご指導によってもたらされたと言えるのである。僕が高校生の頃に先生のご自宅をお尋ねしたことがあると、今日奥様から言われて、その日のことをはっきりと思い出すことが出来た。これまでに何人の教師や指導者にお世話になったのかは分からないけれど、その方のお宅を訪ねたのは、おそらく小島先生宅しかないと思う。
 にもかかわらず、先生ご逝去の報を知らずにいたことは一生の不覚である。今日、奥様から「時どきあなたのご様子を新聞などで見て、目を輝かせていたのよ」などと言っていただいたことに心を打たれた。わが身の不孝、不覚、不明を思いながらハンドルを握って帰宅したが、途中二度も路肩に停車せざるを得なかった。先生! 若き日の先生のお姿とご指導を忘れません。何よりも感謝に堪えません。今日あるのもあの日の先生のおかげです。これからもしっかりと生きていきます。小島先生、やすらかにお眠りください。合掌。合掌。

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