2020年3月16日
今月の1日から吉川英治全集の「宮本武蔵」全四巻を読み始めていた96才の父がついに読了した。数日前に四巻目を読んでいる様子を目にしていたが、今日、僕が早めに帰宅して父のもとに行ってみると「これ、全部読んだぞ!」とのこと。いやー、立派なもんだ。若い頃ならともかく、67才の僕じゃとても読み切れないに違いない。まったく、見上げたものだ。真似ができない。次は、同じ吉川英治全集の中から「新書 太閤記」全五巻を薦めてみますかな?。
さて、昨年の11月に県立富山中部高校から「神通中学・富山中部高等学校 百年史」への寄稿の要請文が届いていた。そのことは時々思い出していた。そして提出期限が令和2年3月2日とされていたことも頭の隅にあった。そのうちに書かなきゃな!などと思いながら忙しさに流されていたのだが、ついに締め切りの日を過ぎてしまい、このまま死んだ振りをしておこうかと開き直っていたところ、なんと今月11日付の督促状が届いてしまった。最早、言い逃れも死んだ振りもできないと腹をくくって一気に書き上げ、14日にメールで送った。以前に他で使った自分の文章をたたき台にしてあっという間に書き上げた横着文である。これが記念すべき100年史に掲載されるのかと思うと恥じ入るばかりだがすべては身から出た錆。100年史が発刊される前にその駄文をこのブログに掲載することでやがて起きるであろう批判の調子を和らげていくこととしたい。百年史編集委員会の皆様、ご迷惑をお掛けし申し訳ありませんでしてた。お詫びします。
(百年史への寄稿文です)
百年の夢の実現にあたって
中部23回卒 森 雅志
1889年(明治22年)の市制施行から130年、さらに2005年(平成17年)の市町村合併から15年目を迎える2020年(令和2年)3月、路面電車の南北接続事業が完成した。まさに富山市民100年の夢であった南北市街地の一体化が実現したのである。人口減少と超高齢社会到来という社会構造の変化に立ち向かい、将来にわたり持続可能な都市構造へと大きく、かつ確実に転換を成し遂げたという意味において、富山市の歴史に新たな1ページを刻む大きな都市計画事業だと言えよう。
蛇行していた神通川の直線化に加え、富岩運河を開削し、その掘削土で神通川の廃川地を埋め、その地に県庁や電気ビルを建てるという大土木工事を富山市の都市計画事業の第一ステージだとすれば、空襲によって焦土と化した富山市街地の復興事業を第二ステージと位置付けることができよう。そして、今回の南北接続事業というまちづくりの大きな到達点は第三ステージの実現なのである。富山市の近代史を考えるうえでこの三つのステージを知ることが欠かせないことになる。
第一のステージの神通川の直進化、いわゆる馳越水路の開削工事が完成した後、富山市の中心部に120haもの廃川地が生じ、荒れ地となって市街地を南北に分断しその処分や活用方法が大きな課題となった。そのため富山駅北から東岩瀬港までの5.1㎞の富岩運河を開削し、その掘削土を使い廃川地を埋めたのである。その埋め立て地にいくつもの施設が誘致されたのだが、その西側に、1920年(大正9年)に創設されていた我が母校の前身である県立神通中学校が移設されたのであった。神通中学校の北側には廃川地を使った神通グランドが設置され、1934年(昭和9年)11月13日にはこの球場で「日米対抗野球大会」が開催されている。なんとベーブ・ルースを総帥とする大リーグ選抜チームが母校の地でプレーをしているのである。現在のMLB(大リーグ)の選抜チームが来富し、富山中部高校のグランドで試合をするなどということは想像もできないことだと思えば、この試合は我が母校の歴史において刮目すべき出来事だったと言えよう。いずれにしても、富山市の近代史の中で、神通川の廃川地の開発において大きな役割を果たしてきた母校の位置づけを考えてみることは意義あることだと思う。
さて、僕も卒業者の一人であることは間違いのないところだけれど、在学中の僕は、ここにその行状を記すことは決してできないような問題児であった。もしも母校に裏面史や裏記録というものがあるとしたら、間違いなくそこに記録されているに違いない異端児であった。しかしながら、そんな僕であっても社会人として生きてきた過程においては多くの先輩や同輩、そして後輩たちにお世話になってきた。時には支えられても来た。何よりも母校の底力の大きさに助けられて本人の実力以上の評価を頂いてきたことがしばしばであった。母校の力とは有り難いものであるとつくづくと思わされている。そのことを思うと、在学時のわが身の破廉恥ぶりを恥じるのみである。後輩たちに馬鹿な先輩の悪行状が記憶されないことを願うばかり。
一方では、世界のあちこちで大活躍している後輩たちに遭遇し驚かされることもある。カナリア諸島で大先輩の女性に出会ったし、NYの美術館で学芸員の勉強中という若者にも会った。一昨年の11月、チリの大統領府から招かれてサンチアゴで講演をした際には、講演後に僕を探して挨拶してくれた女性がいた。彼女は名刺を出しながら「中部の後輩です。」と言って僕を驚かせた。世界は広し、されど中部は強し、か。後輩たちの活躍を願う。