2021年7月22日
数日前に、いつもお世話になっている植木屋さんに頼んで庭に植わっていた黐の木(以下、モチの木)と樫の木(以下、カシの木)とを切ってもらった。どちらの木も樹高が10メートルを超える大木である。地表すれすれのところでチェーンソーで幹を切ってもらったので根っこまで掘り出したわけではない。約40年近くもの間、わが家の庭にあったのだから、強い愛着があり、あとで述べたいと思うが父の気持ちのことも思い、伐採したのではなくて大胆に剪定をしたのだと結論付けたいと思う。幹の根元と根っこは残っていることにこだわりがあるのである。根まで掘り起こして大木の命を絶ったのではなくて、大胆にヘアーカットして五厘刈の坊主頭にしたのだと思いたいのだ。
わが家は40年弱前に、梨畑だった現在地に農家住宅として許可を得て建築した。当時は僕が結婚して間がない頃で、両親・祖父母の家族と別居していた。ある日父が僕を呼び、自宅を新築したいと提案した。そのころは50代半ばであった父にとってどうしても実現したい若い頃からの夢であったに違いなかったのだとと今にして思う。応諾のうえ、資金面でも協力したいと僕が答えると、すぐに親しくしていた木材店に連れていかれた。父は家族に内緒で、10年ほどかけて木材を買い集めて預けていたのであった。さらになじみの植木屋さんに行くと、先に述べたモチの木やカシの木をはじめとする多くの庭木をもストックされていることを知ることとなった。その時の父の思いやそれからの40年弱の家族の歴史が、僕が現在生活しているわが家には溢れるほどにこもっているのだ。同じ思いと歴史が庭木にも込められている。大木が姿を変えたことで明るくすっきりとした庭の様子を眺めながら自分なりの感慨にとらわれている所以がそこにある。
数年前に庭のど真ん中にあった羅漢樹の大木が枯れてきて五厘刈をした。植木屋さんの話では、父がその作業を寂しそうにして見ていたとのこと…。その思いや如何に。そして今回の大木の整理である。僕自身も寂しさを隠し切れない。しかしながら、大木は老木でもあるのだ。植木屋さんの見極めでは樹齢は100年を超えていそうだ。老木だけに腐敗に侵されていて、正確に年輪をカウントできないという。既に大木の姿で我が家の庭に植えられてからも40年弱が過ぎている。さもありなんと思う。この数年の間に強風で折れた枝が飛ばされるということがあり、今年の大雪に際しては、植木屋さんの配慮で西方向にかしげて成長していたモチの木に太いつっかい棒を立ててもらい何とか倒壊を防ぐことができた。老木であることに加えて、昨今の異常気象である。何かが起きてからでは遅いとの思いで、敢えて決断し、五輪刈りの坊主頭処理になったという次第。父の思いや如何に…。
昔から、庭木としてモチの木(持ちの気)、カシの木(貸しの気)、松の木(待つの気)を植えることが良しとされているらしい。さらには花梨の木も珍重されるらしい。こちらは借りない気の意味か?。結果として我が家の庭には松の木しかないこととなった。
数十年前の所業を責められるという難しい、しかし正しくない時代になったと思う。静かに、しかし確固たる信念を持ってあるべき社会の回復を願い、そしてその日の到来を待つためにも、残された松の木を大切にしていきたいと思う。